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先日友人との会話 彼のご両親はフランス・ノルマンディー出身 自身はオーストラリア・シドニー生まれ おつれあいは日本人 日本語の敬語の勉強をしていた時だった 彼曰く 「日本人は どして どして? と 子どものようによく質問をするでしょ」 私が訝しげな表情を彼に向けると 「よく子どもがきくでしょ ドシテって 日本人もおんなじですね」 私は「日本人が? 質問好き?」と敢えて訊く 彼は「そう 日本人 オーストラリア人はちがいます」 「日本人が よく質問をするか オーストラリア人がそうではないかどうかは 私には分かりません が [日本人は]というような大きな言葉を使うときは 私が知る限りは as far as i know と最初に言うと ことが穏便に おだやかに 伝わると 私は思いますが」 「as far as i know・・・? 僕が知る限り? それはそうでしょう 知らないことは言えないのだから 私が知る限りで言っているに決まっています 私が知る限り と言うのは論理的ではないと思います」 「(オォ ソウキタカ・・・) 論理的ではない・・・ 論理的ではない ね 確かに 論理的ではありませんね 知らないことは言えないのだから 論理的ではありません が たとえば 日本人は とか 人間は とか 世界は 人生は云々 という時は 私が知る限りでは という言葉を先に言うことで あえて言えば 分をわきまえて[言わせて頂ければ] という謙譲の気持ちで言っているのです 私の意見がたとえ論理的に合理であっても その内容に確信がある時ほど穏やかに あなたのご意見を尊重しますが 私の考えに対するあなたの見解を待っていますよ と そんな気持ちで言っているのです 最初は「情緒」で 内容は「論理」で その釣り合いを大切にしているのではないでしょうか 私はそう思っていますが どう?」 彼にやっとしてから諧謔的に曰く 「僕が知る限りです 日本人は面白いメンタリティを持っていると思います」 情と理 その二つがきっちり論理で別けることができるなら やくざ映画も演歌も存在しなかったかもしれない そんなことを想いながら 30℃近い梅雨晴れの道を帰ってきた それにしても 「私が知る限りでは」は 論理的では ない か・・・
by skyalley
| 2011-06-22 14:27
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