触ることからはじめよう
by skyalley
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おかげさまで今年の徳談会を終えました
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またまた穏やかなお日和に恵まれた昨日の日曜日
とはいえ 場所柄・季節柄 またお葬式・お通夜の中を
福昌寺のご住職にご便宜を図って頂き
今年最後の徳談会をおかげさまで無事に終えることができました


外での用事を済ませて会場に入ると
前方一帯が妙に輝いて見えました
今までお出まし下さった講師の先生方の中では
最年長92歳の鹿野京子先生が 
椅子の背に掛けられた真っ赤なジャンパーと
お召しになっておられた真っ赤なカーディガン
その二つの明るさ 
そして先生ご自身の放つ輝きであったかとも思います


「生きてきた責任として お話をさせていただきます」


この一言から始められたご講義でした
以下 先生のお話から・・・


ポーランドは 終戦の翌年 ドイツと
戦争中に起こった事実を
教科書にどう記載するかという協議をした
また 戦争終結のその年のうちに
つまり戦争の記憶が薄れぬうちに と
全国の小・中学校の生徒に絵を募集した
そんな酷い陰惨な絵を描かせること・見せることに
抵抗を感じられる方もおられるかもしれないが
幼い子どもだからこそ 何の予見も偏見もなく
あの状況を受け取れた と思う


経済的理由で出版が叶わなかった本国ポーランドの為に
翻訳者の青木進々氏らが作られたのが
先生の座右の書『子どもの目に映った戦争』
同書をポーランドに80冊贈ったところ 80の小学校に寄贈された
徳談会宛ご恵送下さった同書と
読み込まれた先生の蔵書の二冊を回覧している間に
その本の成立過程や背景が語られました


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その本とのご縁で
名ばかりのいわゆる姉妹都市ではなく
「実際に行動を通して繋がっていく」ことを思い立ち
当時幼稚園長を務めておられた先生は
保育内容についてポーランドの幼稚園と関わりたい申し出た
すると一つの幼稚園が紹介された
日本の幼稚園の名は地名や「なかよし幼稚園」などが一般的だが
紹介してもらった園の名は
「第二次世界大戦の犠牲者を偲ぶ第二幼稚園」


ナチスの動向を調べるために
チェコスロヴァキアのテレジンに建てられた
「国際赤十字団視察用」の中継収容所を二度訪ねた
当時そこには中一からの男子学生ばかり百十数名が収容され
音楽演奏や劇 芸術作品などが視察団に披露された
しかしその一週間後に すべての子供達は
各地の強制収容所のガス室へ送られた
生存者は二.三名と聞く


帰国後 テレジン中継収容所の記念館館長さんらを
日本に招待したとき
観光地へご案内しましょう という日本側の申し出を断って
「こどものいるところ」を望まれたので
鹿野先生の務めておられた幼稚園にご来園された


ポーランドから拝借した絵の展覧会を各地で開いた
そんな暗い展覧会に人は集まらない と言われたこともあった
が 自筆で あるいは3歳の子どもの言葉をお母さんが代筆で
とさまざまな感想が寄せられた
来年小学校に入るという男児が 鉛筆で書いてくれた感想
「いちばんおろそしいのは 
 せんそうをしているにんげんのかおです」
これはずっと大切にしたい言葉です・・・・


鹿野先生の話はこんなふうに
人生のほんの一部をご披露して下さいました


前半の先生ご自身のポーランドとの関わりに続いて
戦争中 一庶民 
一人の 女・母・妻・六人兄弟の長女であった先生が
兵隊に駆り出されたまま生死も分からぬご主人を思いながら
五歳と0歳の子どもを抱えて どのように生き抜いてこられたか を
衣・食・住に亘って詳しくお話下さいました
これらの話はたとえば
暮らしの手帖社編『戦争中の暮らしの記録』などを開けば
写真や絵入りで もっと詳しく
あるいはまた別の土地で 別の時間に 別の視点で
語られうる内容であったかも知れません


しかし 鹿野先生のお話のうち
私が最も感銘を受けましたことは
何が彼女をこの年まで活動させているのか という機縁でした
「アウシュヴィッツ平和記念館」 
「幼い難民を考える会」
「海外医療協力会」「九条の会」などの
それぞれの会員として 日々の行動・交流を通して
繋がり続けようとしておられる鹿野先生
私は初めて先生にお会いして以来 その背景を少しずつ知るにつけ
いったいいつから 何が彼女をここまで活動させているのか と
ずっと思っておりました
それはこんなふうに語られました


京都生まれの鹿野先生は
関東大震災で被災した東京の親戚を訪ねていった祖父から
「朝鮮人がデマによって無実の罪で6000人も殺された」と
話しているのを聴いて
 なんてむごい! おなじにんげんだのに
と思ったそうです
鹿野先生が満四歳のときです
その時点ですでにそう感じ取れる感受性をお持ちであった
ということは それまでに ご家庭で 
そう感じられるような素地が育まれていた という証でしょうか
4歳のときの この想いが先生の一生を貫いてきたそうです


幼児の想いを一筋に 一途に生きてこられた方の
お話をご本人から直接伺えたことのありがたさを噛み締めました
ご参会下さいました日仏会館理事の小林善彦先生が
質疑応答の時間に冒頭
「大変感銘を受けました
 今日の話は一万人の方に聴いて頂きたかった」
そう仰って下さいましたが まったく同感でした


この夏 カトリック信者として教会の方々と
アウシュヴィッツ収容所を訪ねて来られたご夫妻に
ご感想を伺う時間を作れなかったことを
大変残念に思い また反省も致しました
いつかお話を聴かせて頂きたいと思ったことでした
鹿野先生には ますますお健やかにお過ごし頂き
またいつか より多くの方々と
お話を聴かせて頂く機会を と心積もりしております


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近くから 遠方からおいで下さった方々 
おいでになれなかった方々
また鹿野先生の送迎をお引き受け下さった方々
会計やお茶の係を黙々とこなして下さった方々
会場が変わったために案内を申し出て下さった方
皆様に感謝致します


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ありがとうございました
by skyalley | 2010-12-13 01:07 | 徳談会日記
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