触ることからはじめよう
by skyalley
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
父母とわたし
高橋由紀子 自己紹介

わたしは
11年前(1992年)に37歳で
公文教育研究会の教材を使い、教室を開室させていただくまで
書道の師について習ったことがありませんでした
研究会の関東地区で最も多くの生徒指導をされていた滝沢有美先生から
ペン習字の教えを乞いつつ、かつ教える、という出発をしました
学んだことがないのに、教える、という無鉄砲なわたしでしたが
滝沢先生には、根気よく丁寧にご指導をいただきました
しかし、ふり返ってみると
子供の頃から字をみることが好きでした

歩いているときに見かける看板の字によくみとれたものでした
手書きの看板を出している店が多かった時代ですから
このパン屋さんの「あんパン」「メロンパン」「うぐいすパン」という字は
あまりおいしそうに見えないな
とか、壁の「もやしそば」「チャーシュー麺」という字は
あのおばさんが書いたのかな、それとも旦那さんの方かな
と顔と字を見比べたりするのが楽しかったものです

また教室の後ろの黒板に張り出されたお習字の作品を見て
「あんなに嫌いなXX君が、あんなうまい字を書くんだ・・・」とか
「あんなにかわいい○○ちゃんが、あんなへんな字を書くなんて・・・」とか
放課後、ひとりで飽かず見ていたこともありました
そんなことに気が行くようにさせたのは父と母だったでしょう
今でも父、母、それぞれのおしえかたをよく思い出します
そしてとても感謝しています



● 父のおしえかた ●  

東京都世田谷区立経堂小学校3年の時、
担任の氏家コウ先生から「かきかたの検定試験に出品してごらん」
といわれたとき
わたしは帰宅すると迷わず父を呼びました

祖父から継いだ乾物屋を営んでいた父が毎晩つける帳簿の字と
母がつける家計簿の字を見て、わたしは父の方が字は上手だとふんでいたのです
店番をしていた父に訳を話すと、父は「書くもの、持っておいで」というと
店から居間への上がり端に腰をかけたまま、大きく「い」と書きました
   
「い」という字は、この左の一本の線と右の一本の線でできてるだろ
もし、この二本の線の間に卵があるとしたら、由紀子はどうする?
「 落ちないようにする 」
そうだ、字をうまく書こうとしたら、いつも卵を考えるの。
「 ・・・・・ 」
ひらがなはどの字も、中に卵を抱いているの。ゆで卵じゃないよ、生卵 
だから「い」の二本の棒は、これはだたの棒じゃなくて、卵を包む掌の形
そっと包むようにしないと、卵は割れちゃうだろ
そういう気持ちで書くの。そしたらうまく書ける。
「 ・・・・・ 」
手取り足取り教えて貰うことを考えていたわたしは首を傾げました
毎日卵問屋から届けられる卵を
L.M.S.SSの4サイズに、全部手で分けて
きれいに積み重ねているときの父の神妙な姿は
小さい頃から見慣れていました。
いつ割るのか、いつ落とすかと、そばで見ていたものの
そんなことは一ヶ月に一度起こるか起きないか程度だとわかって
見張りをやめてしまったのは、わたしがもっと小さいときでした
10歳のわたしのこころの中で、日々、生卵を扱っているときの
父の掌の形と
ひらがなの「い」の文字の形がしっかりと重なりました
ひとつひとつの文字は
「体温のあるもの」を包んでいる、という思いは
わたしのこころにす〜っと沁みこんでいきました



● 母のおしえかた ●

それにひきかえ、母がわたしにものを教えるときの拙さは天下一品でした

今でもよく覚えているのは、夏休みの宿題の押し花作り
古新聞を何枚も広げた上に、乾いた夏草を全部並べると
一枚の画用紙の上に、どれとどれを組み合わせるとちょうど収まるか
それぞれの草のどこに紙片を貼ると
(当時新製品であったセロテープは、光って枯れ草の感じに合わないから、
と使わせてもらえませんでした)
最も少ない枚数で、最も効果的に、その草を押さえられるか
をまず考えさせられました
草の組み合わせが終わると、
画用紙の閉じる部分をどれくらい残したらいいのか
表紙のどのあたりに、どれくらいの大きさで、
題名、製作年月日、学年組、名前を書くとちょうどよく収まるか
画用紙を閉じるためのリボン用の穴は
どのあたりに、どれくらいの間隔で開けるのがいいのか
など母は次々に難題をふっかけてきました


わたしがわからないまま答えると
「何でそんなこと言うの? 
・・・は・・・に決まってるでしょ、
何でそんなことがわからないの!」と必ず怒り出したものでした


その間にも、店にお客様の「ごめんくださーい」の声がする
すると母は「はーい」と機嫌良く応対する
という芸当をいつもしていました


お客様が帰ると
数々の「ほどよく収まる」という難問に混乱しているわたしを覗き込んで
「こんなこと、当たり前でしょ」と
初めてのことであっても
そう言って母は必死でいつも何かをわたしに教え込もうとしていました


いまでも、押し花というと母に叱られ、泣きながら作業したこと
夏草の枯れた匂いを思い出します
が、あんなにも焦るようにわたしに教えたがった、
母にとって当然であって、わたしにとってまったく未知であった
「おさまり」
バランス良く、気持ちよく収めること、は
やはりわたしのこころにずっと残ることになりました
母は1971年に54歳で亡くなりましたが
いまわたしが、書の教室をさせていただいている、と知ったら
どんなに驚くことでしょう

教室がよく見えるところに、母の写真を飾っています



● わたしのおしえかた ● 
  
1992年11月に自分でも思いがけなく
ペン習字の教室を開くことになりました。
近所の公文教育研究会の国語・英語・数学教室の先生が
わたしの字を何かの折りに見て覚えていてくださって
新しくできたばかりの公文のペン習字教材を紹介し
教室を開くように勧めてくださったのです
字を書くことは小さい頃から少しも面倒ではなく
それどころかほめてくださる方もあったので
嬉しくなって気軽に手紙やはがきを書いては出していました
しかし習ったのは、父からの「卵の哲学」
母からの「収まりの美学」だけ
教えることなど、思ってもいなかったので、最初は戸惑いました

公文の滝沢先生とお弟子さん達のお陰で
何とか教室らしいことができるようになりました
しかし8年間、教材だけを手本として指導しているうちに
わたしのこころのなかに
どうしても教材学習からはみでてしまう部分が出てきました


文字をきれいにするだけでなく、
好きな言葉に出会い、こころが動いたときに、手を動かす
というほうが人間的な順番ではないかと思い始めました

ささやかな教室ですが、お弟子さん達が出会った言葉について
またわたしの好きな言葉などについて
教室でご縁があったみなさんと共有できる時間は
わたしの大きな励みであり、愉しみです
by skyalley | 2001-01-01 00:00 | 父・母
<< 空の路地