触ることからはじめよう
by skyalley
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第16回徳談会 報告①


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八重桜咲き初める4月17日日曜日
前回に続き経堂のカフェ・マレットで
宗教者の紀野一義先生を講師としてお招きし
第16回徳談会を おかげさまで無事終えることが出来ました


14回目の講師・鹿野先生が
ご来場するなり私を呼んで こう仰いました
「わたくし 60年前に紀野先生にお会いしております
 (幼児教育者を育てる中野区の)宝仙学園短期大学で
 わたくしが講師をしておりました頃
 紀野先生は学長でいらっしゃいました」
そのことを紀野先生に伝えると
先生は思い出そうとするように目を細め 
そしてゆっくりと握手を求められました


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その会話を聴いておられた紀野先生の奥様が
今度は「わたくし 鹿野先生を存じております
 わたくしが宝仙(学園短期大学)で学生でした頃
 鹿野先生は教鞭を執られていて
 それはおきれいで おやさしい先生として
 みなさんに慕われておりました」


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鹿野先生の後ろに着席されていた竹井朖氏が
紀野先生のご著書『般若心経を読む』(講談社現代新書2006)を取り出し
先生に署名をお願いしつつ
「僕と鹿野先生は同年生まれの93歳です」と仰ると
紀野先生は「こんなふうに縁のある方と出会うことはよくあるけれど
 今日は特別うれしい 
 特別うれしい」と
ご本に長い長い言葉を寄せ
最後に「人生萬歳です!」としめくくられました


なごやかな雰囲気の中
紀野先生の話が始まりました
最初の一時間は 先生が
「えぇ学校でした 一番愉しい時代でした」と述懐された
広島の修道中学における五年間の話に終始しました



修道中学の不良の大将であったという紀野少年
その彼を 何と風紀係の責任者に任命したのが恩師の体操教師でした
「本当に不良の奴を知っているのはお前だけだ
 お前を頼っているのは 本当に不良だからだ
 善良なばかりでは 善い方へ導くことはできない」
と仰ったそうです



親友の不良たちは
「やくざの親分が感心するくらい いい奴ばっかり
 国の為なら死ねる と特攻機に乗った
 でも お前は絶対に乗るな と
 お前が死んだらあとの日本が困る
 一番大事な仕事をするんだ
 負けた後の日本を建て直すには お前が要るんだ
 約束するんだ
 俺たちが守ってやる
 戦後まで残れ 死ぬな

とそう言って死んでいきました

親友たちは特攻機で
両親も兄弟も 皆(原爆で代わりに)死んでくれた
一人も生きていない
私が嫁さんにしたかった娘も死んだ


死んだ連中が夢ん中に出て来て
 紀野 死ぬな 特攻の隊長になるなって 
死んだらみんな 会いに来る それはわかってる


中学の不良仲間は
みな凄い死に方をした
仕方がない ほんとにやれやれですね
あの連中がしたかったことを僕はしてきた
いくら病気になりそうでも なれない
死にそうになっても 死ねない


人間てね 思うようにはできない
でもしなきゃならんことが
そのしなきゃならんことに気づいたら一所懸命にね

変な男ですが一所懸命生きているので 助けてやって下さい




先生は亡くなった親友達に語りかけておられるのか
そこに集まった参加者たちに というより
もっと遥か彼方の何かに語りかけるようだ
一つの話題が終わっても
また それを噛みしめるように 
振り返り振り返り語る姿を 背後から拝見していた


目に見えること
耳に聞こえることからわかることは
紀野先生の話は 寄せては返す波のように
わずかずつ違って表現されていながら
繰り返し 繰り返された という事実です
しかし私は 先生に
幾度も繰り返し話させねばならなかった理由 
目には見えない 言葉にはならない思い
愛すべき不良の親友達のいのちを
無残に失わせた戦争に対するしずかな憤怒に 
耳を傾けていたような気がします

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先生を促して 休憩時間に入りました


続く


 
# by skyalley | 2011-04-18 21:21 | 徳談会日記
WATCH + TOUCH を海外へ

WATCH + TOUCH は
1986年にひょんなことから
英語の教室を始めることになり
その後 書道・フランス語と課目を増やしました


その学びを通して
結局 日本語の「書く・読む・話す・聴く」力を
日本人として何よりも大事なことと考え
英語・フランス語の学習は
日本語をより深く理解し よき遣い手になるための補修
という位置づけをしました


そして机の上 ノートや半紙の上での学びだけではなく
木や ボタンのワークショップ
また80歳以上の方の人生に耳を傾ける徳談会も加え
今 WATCH + TOUCHは
人間関係における相互理解に不可欠な平衡感覚を育むことを大切に
活動をしています


そのWATCH + TOUCHを海外へ紹介しましょう
と提案して下さる方が現れ
先月は ALIBABA というサイトに掲載して頂きました
日本に来られる外国の方や
すでに日本に居住しておられる外国の方に
WATCH + TOUCH流の日本文化を紹介するワークショップとして
紹介されています


http://japanesegreats.trustpass.alibaba.com/product/115640609-101843048/WATCH_TOUCH_Japanese_Culture_Workshops.html


今月は loopto というサイトに加えて頂きました
looptoはまだ知られていない日本の素敵な商品や
それにまつわる物語を集めて
世界中に発信するための広場です


http://www.loopto.com/jp/jgpselectwatchtouch


これらのページを製作するには
企画運営の責任者であるJAPANESE GREATS PROJECTの方々や
looptoの方々
コンピューターに疎い私の右腕として支えて下さっている
グラフィック・デザイナーの馬弓千秋さんにご尽力頂きました


どちらも立ち上げたばかりのオンラインショップですが
私が書く象形文字や
日本独特のうつくしさであるひらがなの作品と
Tシャツや風呂敷 手拭いなど日本のよき品とを組み合わせ
千秋さんのセンスを活かして
これからショップの内容や商品の充実を図っていきます
日本人のみならず お知り合いの外国の方にもご紹介頂き
応援して下さいますようお願い申します
# by skyalley | 2011-04-18 18:28 | こころへ教室日記
岡本克之氏による徳談会報告

私の小学校一年生からの同級生 岡本克之氏が
先日の紀野先生の徳談会の内容を
鮮明な記憶力と 克明な記述力とで以下に再現して下さいました
氏のご了解を得て 以下に感謝を込めて
メールより転載させて頂きます


      。。。。。。。。。。。。。。。。。



紀野一義さんは、
宗教家、仏教学者
まっとうそうな本もいっぱい書いておられる。
ああ、こりゃあ抹香くさい話しだと、思った。

そうではなかった。
聴く人の中は、
同じ話しを何度も繰り返して話し
どのような質問にも、その同じ話しを繰り返していただけのように感じられた向きがあるかもしれない。
わかってるけど、そこへ行っちまうんだ
それほどに強い思い

***

広島修道中学(旧制)時代、自他ともに認める不良であった紀野一義氏は、
五年生になったとき、風紀委員を命じられる。
氏を委員に任命したのは、「朝鮮」という渾名の体育教師。
朝鮮人ではないが、喧嘩っぱやく、喋りかたのぎこちなさが朝鮮人ぽい。
だから朝鮮。
ChosenでなくChosun。
侮蔑的なニュアンスでなく、愛着を込めてChosunだ。

広島には朝鮮人が多数いた。
やくざの多い街でもある。
名前轟く紀野さんに、やくざの親分が会いたいという。
紀野さんとしては、「そんなのと会いたいわけがない」
会ってみたら、相手から「なんだあんた朝鮮人じゃないのか」とがっかりされた。

紀野さんがChosunに、「なんで俺が風紀委員なんですか」と訊いたら
「おめぇ、不良がどこに居るか知ってるか」と言う
「えぇ。流川か本通りです」と答える
「ほかの風紀委員はどこに居る?」
「へぇ。家に居ます」
「お前はどこに居る」
「俺は寺の息子ですから、朝昼晩お経を読みます。寺に居ます」
「嘘つけ。不良は流川か本通りに居るもんだ」
毒をもって毒を制す。
いや、紀野さんは、不良を愛した。

紀野さんが風紀委員に任命されたとき、不良連中は皆「えーっ?」と言った。
紀野さんがそいつらをにらむと、「睨んでる、睨んでる」

「不良ってのは、自分がダメだって知ってる」
自分と向き合い、自分が何をやるかが決まった
そういう奴だけが不良なのだ
「みんないい奴だった」
自分も不良であり、不良を愛した。

てめぇを信頼して風紀委員に任命したChosun
文句を言いに行ったはずが
「俺、もう先生と喧嘩する気がなくなった」
「どうしてだ?」
「俺、先生が好きだぁ」
「そうか。女なら抱いてもやれるが、男じゃそうはいかねぇ。どうする?」
「殴ってくれ」
強烈な一発。
殴られて一間は飛んだ。

班長で、風紀委員で、文芸部委員
襟章が星3つ
そんな奴はどこにもいない
誰でもできるわけでないものを3つもやってすごい

通学は修道高校まで歩いて30分。
途中にミッションの女学校がある。
ほんとうは別な道が通学路なのに、みんな紀野さんの通学路を歩く
紀野さんを一目見ようと
「どうしてだ?」
「だって、気分が良いじゃない」

母上を愛してた
千里眼のお母さん
「母さんがくそオヤジのカミサンで良かった」
「ようやく分ったかい」

オヤジさんも偉い人だった。
広島高校(旧制)に合格したとき
「どうした?」と聞かれ
「広島高校に合格しました」
「うれしいか?」
「うれしい」
「そうか。とうさんもうれしい」
「本当か?」
「ああ本当だ」

広島は、軍隊の街だ。
海軍もあれば、陸軍も、徴兵で採られた兵隊たちが宇品港から戦地に向かう。
小学校の頃から、出征兵士の見送りに狩りだされた。
「今日の兵隊は泣いてたな」
戦地に行くのが嫌で泣いてたわけではない。
自分が徴兵に採られたことで半狂乱になったように嘆いた母親を思って泣いたのだ
広島はそういう街だ。

学徒動員で応召、台湾に
工兵
真っ先に志願して難しいところへ行くはずが、仲間がみんな先回りして、自分の行くところがない
「お前は死ぬんじゃない。この戦争は負けだ。負けたあとを、お前にはやってもらわなきゃならん。こっち来るんじゃないぞ」
仲間がみんなそう言って、戦場に行き、特攻に出撃していった。

「戦争なんて馬鹿なことを、どうしてやってしまったのだろう。二度と戦争をしてはならない」

陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍兵学校...
台湾の基地から特攻に行く連中が、出撃前、紀野さんのところへやってくる。
事情を知る兵隊たちは、酒を都合して紀野さんと二人だけにしてくれる。
朝まで語り合う。
「いつ出撃だ?」
「今日の夕刻」
「家には言ったのか?」
「言っちゃいかんことになってる」

「一度出撃したら戻ってくることはない。特攻行った連中は可哀そうだよ。女も知らず、好きなこともやらず死んでしまった。
戦争なんて馬鹿なことを、どうしてやってしまったのだろう。二度と戦争をしてはならない」

特攻隊の隊長が、出撃に際し
「紀野少尉陣地低空飛行を許可する」という。
紀野さんの陣地のところへ超低空まで下降してやってくる
兵隊が叫ぶ
「特攻機接近!」
超低空で3回ほど旋回し、紀野さんが日本刀を持って陣地から見送ると
翼を振って、立派に敬礼して、そのまま遠くへ飛び去っていく。
数日すると、特攻隊から人が来て
「〇〇は戦死しました」と言う。

紀野さんは泣くわけにいかない。
「隊長の代わりに泣かせていただきます」
部下の兵隊がわんわん泣いた。

「特攻行った連中は可哀そうだよ。
言いたいことなんでも言ってみろというと、死にたくない、死にたくない、死にたくない...
誰も死にたいなんて思っていない。
死にたくないのを、死ねと命令される。
志願したのも居るという。志願しなきゃならないようにされたんだ。
戦争なんて、なんであんな馬鹿なことをやってしまったんだ。
二度と戦争なんかしてはいけない」

「広島修道中学5年生のとき、体育教師のChosunから僕は風紀委員に任命されました。不良の僕に風紀委員をやれと。不良の連中は、それを聞いてみんなえぇーっ!と言った」

兵隊が言う
「隊長殿はお気の毒であります。隊長の代わりに泣かせていただきます」
兵隊がわんわん泣く。
広島に原爆が落とされた。
紀野さんがこよなく愛した不良どもも、学校も、先生も、両親も、仲間も、嫁さんにしようと思った女も、街も、みんな死んでしまった。
だが、紀野さんは泣くわけにいかない。

「戦争なんて、なんであんな馬鹿なことをやってしまったんだ。
二度と戦争なんかしてはいけない」

***

「法華経と般若心経
その二つはどのように違うのでしょうか?」

「どちらが優れているかといえば、それは二つそれぞれに、優れているということでしょう。、どちらかといえば法華経は、大きく深い。それに対し、般若心経は抜き身の日本刀を一瞬かざしたようなところがある。分る人には分るというような。その一瞬を見せて、相手がわかると、わかってくれたかというような生き方。
そういう生き方をする連中が、特攻に行った連中には多かった。
特攻行った連中は可哀そうですよ。
戦争なんて、なんであんな馬鹿なことをやってしまったんだ。
二度と戦争なんかしてはいけない」

「戦争は二度とやってはいけない。と僕らは言った。だが、ひとたび日本という国が、国土が、人間が、他国から蹂躙されるようなことがあれば、その時、やはり僕らは戦うんでしょうなぁ....」


反戦ということについて、
「お国が戦争を始めた。無謀な戦争であっても、皆が必死に戦っているときに、一人戦争反対と言って戦わないことが出来たでしょうか...」

***

太平洋戦争の戦争体験
今般の東日本大震災、津波、原子力発電所の事故
それらをともに、国民の共通体験という人がある。

少し違う?
太平洋戦争は、強烈な国民共通体験であった
しかし、
実際に戦場にあった人たちと、後方にあった人たちとは違う
前者も後者も、二度と戦争はしてはならないと言う
だが、重い口を開くとき、前者の人の多くは、紀野さん同様、戦争は二度とやってはならない。だが、ひとたび日本が他国から蹂躙されるようなことがあれば、やはり僕らは戦わねばならないのでしょうなぁと嘆息される
戦い、敗れ、友を、親を、子供を、兄弟を、仲間を失い、戦争は二度とやってはならないという。しかし、それでも、戦わねばならぬときがあるかもしれぬと煩悶される。

単なる反戦とも戦前賛美とも異なる、人間としての苦悩が集約される
簡単に、反戦、いや戦前日本は正しかった、というように割り切った結論が出せるものではない。
繰り返し、繰り返し述べられる紀野さんのお話しの中に、深く何度も繰り返された煩悶のあとが見える。

***

来年講師ご予定の産婦人科医の方から、いくつかのご指摘。

戦争にはルールが必要
昔の戦い、やくざの抗争には、素人、一般人を巻き込まぬルールがあった

日本は負け方が下手
負け方を知らないから、無差別爆撃、原爆投下をやられるまで行ってしまった

戦争は思わぬところから起きる
日本は平和である
「しかし、自分の頭で考えよう」という議論が出てこない
そういう部分を見ると、日本は危ないと思う

***

僕も日本は危ないと思う。
頭で考えずに、反戦、反核と唱えているだけでは、戦争は避けることができない

米国追随では戦争に巻き込まれるとおっしゃる方がいらっしゃった
自分の頭で考えることをしなければその通り
逆に自分の頭で考えることをするならば、日米安保のわけ、使い道も自ずと異なる

日本は平和である
お国が蹂躙されるようなことも当面、考えられない

しかし、戦前日本が苦悩した、資源小国日本の悩みは今日も続いている
20年前、年間五兆円にも達していなかった日本のエネルギー輸入コストは、今日二十兆円を越えている。この間、日本のGDPは殆ど成長していない。
本来国民生活、内需、福祉に回せたはずのお金が、エネルギーコストに消えていった。
チュニジアに始まった長期独裁政権打倒運動は、エジプト、リビア、イエメンに伝播し、そしてサウジアラビアへも波及の可能性
エネルギー確保は不確定さを増し、コストは、ますます上昇していく。

戦前日本は、資源を求め、アジア侵略、戦争の道をたどった。
他国の搾取に活を求めた。

この20年間
日本は、自分の生活のために、将来世代にツケを回した
ツケ回しはそろそろ限界に来ようとしていた?
そこに、大震災、津波、原発事故

原子力発電は危険、やめようという声が一斉にあがっている。

太陽光発電、海流発電、地熱、メタンハイドレード...
代替エネルギー源は、どれもまだ未完成
しばらくは、将来世代に回すツケで、エネルギーを買うことが続く。

残された化石燃料、果たして我々世代が使ってしまって良いものか?
そんなことをやって、未来世代の可能性を消費してしまって良いのか?

きな臭いにおいがしてきた
原子力発電は安全とは言えない。
(個人としては安全と思っている。指摘されていた安全対策を懈怠したのは人間である。懈怠そのものが、後述する核武装勢力の陰謀かもしれない)

原子力発電は、日本の核装備、核開発に蓋をする役割を果たしてきた。
日米安保に日本再軍備を牽制する役割があるのと同様。
毒を以って毒を制す。
しかし、先人には先人と将来世代の知恵への信頼があった。

それぞれに危険を伴う、発電と爆弾。
1960年代半ば、日本は爆弾の代わりに発電を選んだ。
核拡散防止条約(1970年署名、1976年批准)により日本の原子力は国際原子力機関(IAEA)の管理下におかれている。その先人の知恵を、後代政府の、官僚の、官僚以上に官僚的な東電の懈怠、不作為が、ないがしろにしてしまうかもしれない。
信頼は失われ
制される毒から、もうひとつの毒が解き放たれるか...

爆弾も発電もしないという選択肢は無論ある。

だが、可能性を我ら過去世代に消費され、エネルギー資源がますます限られる未来の人たちに、爆弾も発電もナシと、我らは言い得るか?
爆弾も発電もナシで良い、大丈夫と言い続けられるものを、私たちは彼らに伝えているか?
衣食足りて礼節を知る
借金だけで、エネルギーの自立もできない日本に、爆弾も発電もナシで良いと言い続けることができるか?

原発をやめようという勢力の後ろのどこかには、核武装を企てる連中が潜んでいる。
(核拡散防止条約は脱退可能 原発をやめれば核拡散防止条約に対し日本はフリーハンドを獲得し、3年もあれば原爆は開発できる 技術からすれば100発、200発の大陸間弾道弾の開発が可能である)
日米安保反対を唱える人々の向こうにも、人々の思いと裏腹な、日本再軍備を企てる連中が手ぐすね引いて待っている。

反原発、反日米安保は言論の自由であり、根拠もある。

しかし、それを言う人とき、私たちは、それらの実現が、そのまま安全と平和につながるものでないことを、わかっていなければならない。
自分の頭で考えるとは、そういうことである。

新しい現実には、新しい事態がもたらされる。
戦争は思わぬところで起こる。

信頼が失われ、毒が毒になってしまった時代に、我々はパンドラの箱を開けねばならないのだろうか?

「戦争なんて、なんであんな馬鹿なことをやってしまったんだ。
二度と戦争なんかしてはいけない」

紀野さんの言葉を二度と繰り返さないために、私たちは何を為すべきか。
# by skyalley | 2011-04-18 09:17 | 徳談会日記
今後の徳 談 会 講師のお知らせ

以下の先生方のご講演を予定しております

第17回6月  
山本思外里氏 82(元読売新聞社社会部・婦人部長)

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第18回9月  
福島勇三氏 85(永楽倶楽部 マイスター・バーテンダー)

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第10回11月 
青野輝子氏 84(東京個人タクシー太陽協会会長)

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ご紹介下さった小林善彦先生
神岡正夫さま そして 石川琢磨・克子先生ご夫妻に
心より感謝致します
皆様にはぜひお心づもり頂きたく ご案内致します


またメールでお伝えしましたとおり
関東大震災の余波 第二次大戦 東京大空襲など
さまざまな大きな惨事を直接・間接にご経験してこられた
今までの徳 談 会の講師の先生方に
3月11日の大震災をどのように捉え
どのように感じ 考えられたのかを書いて頂きたい と思い
原稿用紙4枚ずつを送らせて頂いたところ
4枚では不足 という量と内容を備えた返書を拝承しました


どのような形で皆様にお伝えするかを今検討中です
もう少しお待ち頂きたく お願い申します


それでは17日の徳 談 会へ お繰り合わせ下さいませ
# by skyalley | 2011-04-13 21:10 | 徳談会日記
「ちびくろさんぼ」くん 誕生!


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4月7日午前2時45分
友人のセネガル人夫妻に
3364グラムの元気な男の子が誕生した
お二人とは二年前に留学生会館の日本語教室で知り合ってからのおつきあい


病院探しから始まって
妊婦検診 母親学級にもずっと付き添わせてもらい
おかげさまで私は出産に関するフランス語をたくさん憶えた
イスラムの伝統の一部を垣間見せてもらったことも忘れがたい


母国のセネガルでは 出産に立ち会うのは女のみ
ご主人は陣痛が始まってからも 躊躇する顔色
しかし痛みに耐え続ける奥さんの様子を見るに忍びなく
そのままいっしょに分娩室へ


奥さんの骨盤をマッサージする私に
身を捩って救いの手を求める奥さんを介抱しつづけるご主人が
まことにおごそかな面持ちで
こんなことを話し出した


コーランの中に こんな一節がある
一人の男が預言者に訊いた
もし一人を助けるとしたら 誰を助けたらいいのですか
すると預言者は応えた
「あなたの母親を助けなさい」
もし次ぎに助けるとしたら 誰を助けたらいいのですか
「あなたの母親を助けなさい」
次ぎに助けるとしたら 誰を助けたらいいのですか
「あなたの母親を助けなさい」
その次ぎに助けるとしたら 誰を助けたらいいのですか
「あなたの父親を助けなさい」

そしてそこまでなんだ 後はない
僕の母親は僕を入れて7人の子を産んだ
今まで呪文のように唱えてきた一節だけど
今 妻を見ていて
コーランの意味するところが初めてわかった



元気な産声を上げて この世に生まれ出た赤さんに初めて授乳をする前
ご主人が「小さなコップと きれいな水が欲しいんだけど」と所望
助産婦さんにお願いすると 彼女は訝しがりもせず
すぐに煮沸した水を用意して下さった


それを受け取ったご主人は
そのコップを手にすると 口を寄せて何かをしきりに呟いている 
それから助産婦さんに助けてもらって その水で赤さんの口を湿らせる
残った水で奥さんの乳房を清め 赤さんは初めて母乳を口に含んだ


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私は目の前で静かに進んでいることを 黙って見守っていた
病室に戻った奥さんと赤さんが眠った頃
私はご主人にさきほどの水のことを尋ねた
彼はコーランの数節を水に語っていたのだという


清く健やかに というような内容だから特別な意味はないけれど
どの節を語るのかは決まっていて
ずっとそのように伝えられて来たんだと言う
イスラム教徒の父親としての最初の役割を果たした思いが伺われた


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赤さんの心音は安定しているが
陣痛の間隔が狭くなる
これは赤さんに励まされながら闘ったお母さんの記録だ
私はお産が終わって静かになった分娩室で写真を撮った


煙草を吸ってくるね とご主人に言うと
 えっ 吸うんだっけ?! 
 そう 特別なときだけにね
私の応えに大きな笑顔で じゃ いいよ と言ってくれた


一足先に帰宅しようと外へ出る
病室から見えたケヤキの芽吹き
入院前に道中の公園で見た満開の桜をあらためて見上げながら
セネガル人のお二人と出会えたことを深く感謝した


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孫を持つ身として
遥か彼方で無事出産の知らせを待っているご両親方を思いつつ
夜明けの町を駅に向かった
縁とは異なもの 味なもの だ
# by skyalley | 2011-04-09 15:44 | ひと
「備えあれば憂い無し」

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急がば回れ
転ばぬ先の杖・・・
諺(ことわざ)は
何かしらの失敗をして その場で言われた者にとっては「泣き面に蜂」
有無を言わせぬ頑固さを感じて
自分の言葉として使うことも
もちろん言われることも いままでは敬遠していた


しかし震災以来 よく思う
「備えあれば憂い無し」だと
先日 英語の生徒さんと勉強をしていたとき
この話題に触れ 英語では何というかをいっしょに調べてみた


Providing is preventing.
  備えることは防ぐこと

Ready money is a ready medicine.
  蓄えは速効の薬

Provide for the worst; the best will save itself.
  最悪に備える さすれば最善が救う

Provide for the worst and hope for the best.
  最悪に備え 最善に期待をかけよ
  (第二次大戦中の貯金標語)


言い方は何にせよ 要は
「何を備えるか」
「何を蓄えるか」であることを初めて考えた
地震そして津波 あのような惨事をテレビで観る限りでは
避難用品やお金など 持ち出す間もないことがわかる
身一つでかろうじて避難できたときに 必要なもの 
身すら失っても 形を変えて在るものだ


先日 孫息子を連れて砧公園へ行った
雲龍柳(うんりゅうやなぎ)も欅(けやき)を始め
公園中が 新たな芽吹きでざわめいている
冬にあって 備えていたんだな
蓄えていたんだな としみじみ見上げた


備え 蓄えは「物」だけではない
日常に非日常を観る「心」をこそだ
「備えあれば憂い無し」
言い伝えられてきただけのことはある
そう納得した
諺の「かたさ」は「こわばり」や「かたくな」ではなく
「たしかさ」であること
そう認識した


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# by skyalley | 2011-04-06 09:00
「進化したよ!」


那須に一人で暮らす妹に
あれこれと送る物があったので
孫息子・颯太に手紙を添えてもらうことにした


颯太は文面の書き出しを
「じしん(地震)だいじょうぶ?(でいいの)」と自信なげに訊いて
鉛筆を持った


娘が「颯太 たのしいこと 書いてあげよう」と促すと
ころっと声を変えて
「そうちゃんはげんきさんからはりきりさんにしんかします!」と言った


この春 彼は保育園の年少の「元気組」から
年中の「はりきり組」になるのだ
それを「進化する」と言いのけた


テレビのニュース番組で 
「朝市が明日から再開します 明日からがんばります」
という被災地からの報告の一言を小耳に挟むと
「ちがうでしょ きょうからがんばるんでしょ ねぇ」
アニメ・キャラクターを鋏で切り抜きながら
顔も上げずに そうテレビに言い返した


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去っていった友達や先生
新しく加わった友達や先生方との「はりきりさん」初日
珍しく緊張の面持ちで帰ってきたが すぐに
4月末の5歳の誕生日を楽しみに
暦の今日の日付の上に「おしまい」の意味の×印を付けていた
あの椅子にようやくつかまり立ちをしていた子だったのに


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新たな一年
新学期の月
私も進化しなければなるまい
あの震災以来 
多くを感じ多くを考えてきた
それを日々に 未来に活かすべく
# by skyalley | 2011-04-02 01:12 | 孫息子・颯太言葉ノォト
「怖れるべきは」


友人が19日の毎日新聞記事を紹介するメールを送って下さった
筆者は同志社大学大学院 浜 矩子教授

長文であるが 以下新聞から



緊迫した時間が過ぎて行く中、しばし気分転換の読書にひたっていたら、
次の言葉に出会った。
「人生において恐怖すべきことは何もない。あるのは理解すべきことのみである」。
くしくも、これはかのマリー・キュリーの言葉である。
キュリー夫人の物語はご存知の通りだ。
放射能研究で1903年にノーベル物理学賞、
1911年にはノーベル化学賞を受賞した。
放射能という言葉そのものが、彼女の考案によるという。


彼女のいう通りだ。知らないことは怖いことだ。
人間は、自分にとって分からないものを怖がる。
得体が知れないから怖い。
それが何物であるのかが分かれば、怖がる必要はなくなる。
幽霊の正体見たり枯れ尾花だ。


逆にいえば、知らないこと、よく分からないことは恐れて然(しか)るべきことだ。
きちんと理解出来ていない事象を、あなどってはいけない。
しっかり敬意を払って恐る恐る扱うべきだ。
そういうことでもあると思う。
準備不足の空元気は、とんでもない事態を引き起こすことになりかねない。


今、我々の目の当たりで起こっている大異変が、
「徹底理解」ということがいかに大切かを物語っている。
キュリー夫人の言葉に出会ってそう思う。
地震研究の歴史は長い。
理解は相当程度に深まって来ているはずだ。
だが、それでもなお、この恐ろしい事態が起こった。
恐れる必要がなくなる段階に、なおも、我々はいかにはるか遠いことか。


キュリー夫人が研究対象とした放射能に関わる分野を巡っては、なおのこと然りだ。
専門家たちの理解が不十分だなどと、そんなことを言いたいわけではない。
驚くべき蓄積が形成されて、今日に至っていると思う。
だが、福島第1原子力発電所で次々と発生する問題また問題をみれば、
恐れ無用のところまで、理解が進んで来ていないことは明らかだ。


地震と原子力。思えば実に恐ろしい組み合わせだ。
この組み合わせを、恐怖しないで済む日は来るのか。
その日はまだ遠いのに、この組み合わせの中で人々は暮らして来た。
これからも、暮らしていかなければならない。
このことを、我々はどう受け止めたらいいのか。


とてつもなく高い代償を払いつつ、
今、我々は知らないことの恐ろしさを思い知らされている。
断じて、のど元過ぎれば熱さを忘れるでは済まされない。
怖さが完全に払拭(ふっしょく)されるまで、理解を深める。
当面の難局を乗り切った後の原子力政策に、この課題がつきつけられる。


当面の状況を克服していくに当たっても、キュリー夫人の言葉は示唆に富んでいると思う。
福島第1原発付近では、放射能を恐れての救援物資の輸送拒否問題も出ているのだという。
運び手の恐怖は重々分かる。だが、何たることかとも思う。
これも、状況がよく分かっていないがゆえの恐怖だ。きちんと知らされていない。
そのことに伴う疑心暗鬼だ。
まさに正体がみえないから、発生する怯(おび)えだ。
この種の怯えを払拭することは、間違いなく政治と政策と行政の責務だ。
 

今の事態の中には、確かに怖いことが一杯だ。
恐れるべきこと、注意を要することが山ほどある。
だからこそ、理解不足に伴う余計な恐怖は、徹底排除しなければならない。
何が何だか分からない中では、恐怖がつのるばかりだ。
こんなことは言うまでもない。言うまでもないことを、言わせないで欲しい。


政府も電力会社も大変なことは、それこそ、よく分かる。
皆で同じ理解を共有しよう。
それが恐怖の克服への近道だ。

   以上新聞記事より転載





教授に倣ったわけではないが つれづれに読んでいた本で
次の言葉に出会った。



  わたしたちとして怖れるべきは、
  ただわたしたち自身だけだ。
  神々も運命も、
  わたしたちの感じやすい心の琴線の裏切りによるのでなければ、
  わたしたちに何の働きかけもできない。
  わたしたちの一段と低い魂に対して、神々と運命は卑劣な支配をする。 




原子力発電所から出る放射能廃棄物の処理に対して 
世界は確固たる解決法を見出していない
原発が「トイレのないマンション」と言われる所以だ
放射能を出す とわかっていながら 
処理場が無いために ある意味で垂れ流しにしながら稼働させている


ネイティヴ・アメリカンは
七世代先までを考慮に入れて決めごとをすると聞いた
怖れるべきは 知るべきは
原発の原理や 放射能の数値や 野菜の製造元や 水の出所などではなく
原発を許してきてしまった私自身だ
数え切れないほど先の先の世代にまで
負の遺産を残しつつある生活を甘受してきた私自身だと そう思う


これからの生き方をどうするか 日々そこが問われている


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# by skyalley | 2011-03-28 16:00 | こころへ教室日記
フランスの影 日本の光



数日前 私は孫息子を連れ 友人と馬事公苑にでかけた
震災後 しばらく外出がためらわれた一週間があったが
それが過ぎた週末
多くの家族連れが 早春の日差しを浴びてくつろいでいた
特に子供たちの表情は
心なしか開放感に溢れているように見えた


思いの外 強い日差しのせいか
蕾をいっぱいにたくわえた八重桜の下に黒々と広がる影
何枚かの写真を撮った
孫息子に「影があるってことは?」と問うと
彼は「光があるってこと」と応える


その時の写真をフランスの友人夫婦に送った
震災直後から何度も見舞いのメールを頂いた
元気でやっているから心配しないで と


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それに応えて届いた昨日のメール
目に飛び込んできたのがこの写真


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私の写真を受け取って後 
巴里郊外へハイキングにでかけた彼らは
この情景を見つけて カメラに収めたそうだ


「私有地内の木だったので 近づくことは出来なかったし
 出来がいい写真ではないけれど
 この木を通して せめてユキコとつながれるかな と思って」
そう書き添えてあった
# by skyalley | 2011-03-23 18:21 | BUTTON日記
明治38年 1905年神奈川県・大山生まれ




90代で亡くなった父方の祖母は1905年生まれ
90代で と亡くなった年齢を明確に言えないのは
息子である私の父が亡くなった後も
妹に祖母の面倒を任せっきりで
それだけ私が彼女と疎遠であったからだ


子供の頃は彼女のすることなすことが嫌だった


たとえば水の扱い
流しの洗い桶の中に 一度使い終わった水を
捨てることなくいつまでも取っておく
たとえば紙の扱い
隠し(ポケットをそう呼んでいた)に
一度鼻をかんだちり紙をいつまでも取っておく
たとえば洗濯物の干し方
私が家族の下着を日によく当たるように干すと
祖母は「おてんとさまに・・・罰が当たる」
とぶつぶつ言いながら 日陰に干し直した
トイレに入ろうとすると 真っ暗な中にうずくまっていたりもした



その水で 使い終わったコップをチャチャと洗う
その紙で 私の鼻水を拭こうとする
「きったないよぉ ばあちゃん。。。」
よくそう言い放った
「電気つけてよ」と言っても 何にも応えないで用を足す
表情を変えることなく
訳を言うでもなく
その水を まだ張ったままにしてはばからず
私の鼻水がついた紙を また隠しに戻した


あちらもで孫がかわいいという様子がなかったので
親しみが持てないばあちゃんであった
明治38年 1905年神奈川県の大山生まれ
関東大震災
第一次世界大戦
第二次世界大戦
東京大空襲を経て 生きてきた


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近所の馬事公苑で 芽吹かんばかりのケヤキを仰いだ
木はいつものように日常を生きている


祖母のことを この頃よく思い出す
# by skyalley | 2011-03-22 18:32 | うちのひとびと
絵本「いくいりぶりあむ」

グラフィック・デザイナーの千秋さんと
小さな絵本を作っている
作っては再考・再製を繰り返し
すでに4冊を数えた


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   大きいのがある 
   小さいのがある


   黒がある 
   白がある


   日本がある 
   世界がある


   かなしみがある
   よろこびがある


震災後 非常用品の袋の隅に
私はこの絵本を入れた
大人たちとの言葉の寺子屋「こころへ教室」
三歳からの「こども・ことば・ひろば」教室
それぞれの営みを通して形になった思いを
この本に込めた

 
災害が目の当たりになっただけで
実はたった今でも世界のどこかで
天災や人災による悲惨な状況が
起こりつつあり 
そして繰り返されている現実
負の側に気づいていても
覚悟が足りなかったとつくづく
今 思う


日常があるということは
常に非日常があるということでもある
日常にその覚悟を抱いて暮らしているかどうか
私という個人
そして日本国
そのことを考えさせた震災だ


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「危機」という言葉は
辞書を引く限りは 危なく不安な状態 とある
「危機」の「危」は確かに 危ない方だが
「機」は「機会」の「機」でもある
危ない 危ない と怖がってばかりいないで
この経験を
私に 日本に 世界にどう活かすかを考え
実行に移す その機会だ


暗号のような
呪文のような「いくいりぶりあむ」は
「平衡」を意味する英語
絵本「いくいりぶりあむ」は
5月5日のこどもの日にまでに完成させようと
今 千秋さんと仕上げにかかっている
# by skyalley | 2011-03-20 18:29 | cocoro-e shop
死ぬ 生きる


まだ余震の続いていた朝
食事を終えた颯太がふいに私に訊いた

 ね ね そうちゃんがおじいさんになったら
 かっくんは もうしんでる?

   そうだね しんでるね

そのやりとりを出かける支度に勤しんでいた娘が小耳に挟み

 かあさん やめてよ そういう話
 そういうのって けっこう怖いんだからぁ

そう言うと 早々に食堂を出て行った

私はあらためて颯太の隣に座って
そこにあった薬の袋の裏に言葉を書きながら
颯太に問うた

    颯太 生きてるってことは?
  死ぬこともあるってこと?
    うん そう 生きているものはみんな死ぬんだ
    じゃ かっくんは目に見えてる?
  うん 見えてる
    じゃ みぃちこちゃん(私の妹)は見えてる?
  みえない
    でも 声は聞こえる?
  うん きこえる そうたぁ そうたぁ っていってる
    みぃちこちゃんのかおは見える?
  みえない でも そうちゃんのこころにいるよ
    そうだね みぃちこちゃんは颯太の心にいつもいるね
    だって 「たいせつなものは?」
  「めにみえないんだ」
    そうだね 死んだら目には見えなくなるんだよ
    でもこころにはちゃんといるの
    いつでもいるの
    かっくんのお父さんとお母さんはもう死んじゃったの
    でも いつもかっくんの心の中にいる
    死んじゃったけど かっくんの心の中に生きているの
    わかる?
  わかった じゃ さ

何を言い出すのかと思ったら
私が持っていたペンを取って
「さ」と「き」字を書いた 
そして 「さ」の一画目を指しながら

 いっぽんせんがあるってことは
 にほんせんもあるってことだね

と「き」の一画目を指さした


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# by skyalley | 2011-03-18 18:30 | 孫息子・颯太言葉ノォト
「ピラミッドぉ できたよぉ!」

コンピューターの小さな画面に向かって
あれこれを片付けようとしたとき
積み木で遊んでいた孫息子の颯太が 居間から私を呼んだ

 かっくぅん
 ねぇ ねぇ ピラミッドつくろうよぉ
   ピラミッドかぁ いいねぇ
   でも今 ちょっとお仕事しなくちゃならないから
   それが終わったら いっしょに作ろうか
   すぐ終わるよぉ

私は書棚から『ピラミッド』(岩波書店 D.マコーレイ)を取り出し
颯太に見せる

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 かっくぅん ピラミッドって なあに
    エジプトっていう国の 昔の王様のお墓
 ふぅん・・・ さきに作ってるねぇ

私は仕事に戻る

 かっくぅん できなぁい これむずかしよぉ


すでに颯太は土台を正方形に作っている
しかし使おうとしている積み木は細長くて薄いので
なかなか扱いにくそうだ
好きなようにやってごらん と促すと
ぶつぶつ言っていたが そのうちに静かになったので
私も作業に集中した


しばらくすると 

 かっくぅん できたよぉ!


こちらも一段落したので 居間に行ってみた

できていた

破壊され 地図から消えそうになっている土地がある
破壊され 消え入りそうになっているたましいもある
それが目に見える形で突きつけられている その時に
颯太が「建設」したピラミッドだ


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# by skyalley | 2011-03-18 17:37 | 孫息子・颯太言葉ノォト
助産院アクア・バースハウスの山村先生
0さんはご主人の留学に付き添うため
2年前に来日 以来いっしょに日本語の勉強をしてきた
その彼女は この震災時に
4月5日の出産予定日を控えている


その日の午前中 
彼女は助産院アクア・バースハウスでの検診を終え
昼食後 勉強のため私の家に来られた
同じ頃 やはり勉強に来られた文さんも交え
話をし始めたら あの地震が起こったのだ


航空会社の客室乗務員を務めている文さんのてきぱきとした声
0さんはすぐに勉強机の下に身を隠した
ようやく揺れが一段落したので
0さんに出てくるように伝えたが
あまりのおなかの大きさに はてさてどうやって出たものか


入るときは必死だったのだろう
体を横にしたり くねらせたりして ようやく出てこられたが
遠目で分かるほど体を震わせている
故郷アフリカのセネガルでは経験したことのない地震
来日してからの何度かの地震には比べものにならない


幸い同じ町に暮らしている文さんに同行してもらって
何とか住まいにしている留学生会館に帰っていった
それから待つこと数日 学術会議からようやく帰国したご主人の胸には
ヨーロッパで得られたわずかな情報
日本からの信じられない そして断片的な映像


ご夫妻は生まれてくる赤さんへの放射能の影響を考え
不安でいっぱいだ
明日の産婦人科への定期診察もできれば来週に延期したい
と電話をしてきた
はてさて どう応えたものか


私はアクア・バースハウスへ電話をした
代表助産師の山村先生が出られた
 「あぁ 不安なんだねぇ かわいそうに
  外国人の間じゃ あらぬ噂も立っているみたいだし
  大使館員が帰国しちゃうんだからね
  うちでも37週の妊婦さんが国へ帰るから 
  診断書を書いてって言ってきた
  病院では書いてくれないからね
  
  だけど日本は二度も原爆にあってるんだからねぇ
  とはいっても始まらないしね

  じゃ東京で放射能を一年間浴びても 
  一回のCT-SCANの放射能の量より少ないって
  そう言ってみてくれる?
  私だって怖いわよ 
  でも妊婦さんはもう産むしかないんだから 
  進むしかないんだから がんばってもらわなくちゃね
  よっぽど怖かったら家へ来なさい って そう伝えて」


友人として フランス語の通訳として
0さんの出産に付き添う私も 慰められ 勇気づけられた
出産予定日を3週間後に控えた0さん 
いつ産気づいてもおかしくない
どんなに自分を励ましていることだろう


アクア・バースハウスは次女がお産をした助産院でもある
山村先生ご夫妻を始め
スタッフの皆さんがおられれば
どんな状況であっても信頼しあってお産を迎えられるだろう
http://www.aqua-birthhouse.com/


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# by skyalley | 2011-03-17 18:13 | ひと
「やめろぉ もういっぱい殺したじゃないか!」
大災害が発生してから
もうすぐ5歳の誕生日を楽しみにしている孫息子の颯太は
以前から好きだったアメリカのアニメーション
「ヒックとドラゴン」(HOW TO TRAIN DRAGONS」を観ている


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「ヒックとドラゴン」の主人公はヴァイキングの若者ヒック
といっても彼自身は 
族長であり無骨でたくましい父親とは正反対に
ひ弱で心優しく発明好きというバイキング中の変わり者
彼らの宿敵は 空から村を襲ってくるドラゴンたち
ヒックは傷ついて飛べなくなったドラゴンのトゥースと出会い
不思議な友情を育むことになる


トゥースを通して
実は 怖れられているドラゴンたちも
女王蜂のような存在の巨大ドラゴンに貢ぐために
村を襲ってきたのだということを知ったヒックは
「ヴァイキングは今までも これからもドラゴンと闘い
 彼らを殺す
 それがヴァイキングだ」と言う父に対し
「やめろぉ もういっぱい殺したじゃないか!」と
父に初めて意見する


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ある日 テレビのそばで黙ってぬりえをしていた颯太が
いきなり
「やめろぉ もういっぱい殺したじゃないか!」と叫んだ
驚いた私が問うと
「いまね
 かみさまにいったんだよ
 もういっぱいころしたじゃないか って
 ヒックもおとうさんにいったでしょ」
そう言うと またぬりえに戻っていった


日々テレビに映し出される被災地や被災者の惨状が
4歳の颯太の胸に こう言わせたのか


私たちが避難用の品を準備していると
彼は裏庭に出て行った 
呼ばれたので行ってみると
「ね 30こあったら みんなにたりるかな」と言いながら
粛々と泥団子を作っていた


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地震発生後 すぐに祖父に保育園に迎えに来てもらい
それ以来自宅で過ごしている颯太
最初は 保育園から借りてきて
何度も練習して上手に被れるようになた防災頭巾を頭に
家族が皆揃っていることに 少しうきうきしておやつを食べていたようだったが
不条理は彼なりに理解されている


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なぜあの惨事が
起こらなければならなかったのか
なぜあの惨事が彼らに起こって
私にではないのか
私に求められていることは
これらの不条理な問いへの答を出すことではない
自然を制御できると思ってきた
あるいは分以上の便利を享受してきた国に暮らしてきたことを省み
あらためて
この惨事からの教訓を未来へ遺すことか


それにしても
世界を震撼させるような大惨事の現場で
たった50人の会社員が命を賭している現実を
どう受け入れたらいいのだろう
# by skyalley | 2011-03-16 12:36 | 孫息子・颯太言葉ノォト
おそぶさ・・・?


今日 妹と娘と孫息子・颯太と法事にでかけた
電車に乗っていて ある駅に着いたとき
扉が開いたら
正面に東北新幹線新型車の大きなポスターが目に飛び込んできた


私たち大人が「すごい形だね」
「カモノハシみたい」と話していたら
黙ってポスターを見ていた颯太が
私の方へ振り向いて こう言った


「ね ね おそぶさもあるのかなぁ」


   オソブサ・・・?
一瞬何のことか分からなかった
ポスターをあらためて見ると「はやぶさ」とある


日頃 颯太とは 右があれば? 左もある
天があれば? 地もある
日本があれば? 世界もある
というような対のクイズを出し合っているので
颯太が「はやぶさ」は鳥の「隼」ではなく
「速(はや}ぶさ」だと思い込んだこと
そして それに対して「遅(おそ)ぶさ」もあってもいい 
と想像したことを 私はようやく理解した


  そうだね 何でも速いばっかりだから
  ゆっくりのオソブサがあってもいいね
と私が応えると
颯太は「ね いいよね ゆっくりもいいじゃんね」


手すりの脇の席に男の人が座っていた
手首に入れ墨の端が見え隠れしている
颯太の方を見ながら
目尻を緩ませ 小さく頷いていた


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おそぶさ ね
# by skyalley | 2011-03-06 23:46 | 孫息子・颯太言葉ノォト
三月生まる




     いきいきと三月生まる雲の奥   飯田龍太


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今日の砧公園で
# by skyalley | 2011-03-02 19:02
和(やわらぎ)をもって

706年に作られた「十七条の憲法」

その第一条の冒頭はよく知られているように「以和為貴」
和を以て貴しとなし だ


更にその先を読んでみると


人は徒党を組みたがり(人皆有黨)
悟りきった人格者は少ない(亦少達者)
それゆえに
君主や父親のいうことにしたがわなかったり(是以或不順君父)
近隣の人たちともうまくいかない(乍違于隣里)
しかし 上の者も下の者も
協調・親睦の気持ちをもって(然上和下睦)
論議するなら(諧於論事)
おのずからものごとの道理にかない(則事理自通)
どんなことも成就するものだ(何事不成)


つまり
この「和」は
他者が「そうだ」と言ったら
争いごとを避けるために穏便に「そうだ」と同調することではない
異なった立場・考えの他者に対して
まずは「和」(やわらぎ)の気持ちを持つこと
そして その気持ちをもって「議論する」こと
そのことが大切だと説いている


日本人は付和雷同だと言う意見や考えがある
現に現代社会においてもそういう人は存在する
しかし
この国が生まれようとしていた7世紀初めに
和らぎを持って 他者と相対し
議論をすれば 物事が自然に添うように収まる という
この考えを頂いた憲法があった


自分という一人のこころにも葛藤があり
迷いがあり 逡巡があり 不安は残る
しかし
違いに出会ったことを
よりよき方を志す機会ととらえ
和らぎをもって 繋がっていきたい


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# by skyalley | 2011-03-01 08:54 | BUTTON日記
「オンカロ」(フィンランド語で「隠し場所」)
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先日テレビで
「地下深く 永遠(とわ)に 
~核廃棄物 10万年の危険~」の再放送を観た 

以下NHK BSのサイトより抜粋



各国が頭を痛める原子力発電所の廃棄物問題
北欧のフィンランドが世界に先駆け
核のゴミの最終処分場の建設に乗り出している。
「オンカロ」(フィンランド語で「隠し場所」)と呼ばれる処分場は
太古の岩盤層を深さ500mまで掘り下げた先に作られ
施設が国内で排出される核廃棄物で満パンになる約100年後に
入口を完全封鎖されるという。

核廃棄物の最終処分が難しい理由は 実はその先である
廃棄物が出す放射線が
生物にとって安全なレベルに下がるまで
欧州の基準では少なくとも10万年かかるとしている
つまりオンカロは
人類の歴史にも匹敵する膨大な歳月の間
安全性の確保が求められるのだ
革命や戦争が起きたり
気候や地殻の大変動に見舞われたりしたとしても・・・

最も危惧されているのは
今の人類が姿を消したあとの未来の知的生物が処分場に侵入し
放射線が漏れ出してしまうシナリオだという
そうならないよう
近づくと危険だという警告を伝えた方がいいのか?
しかし、どうやって?
あるいは何もせず
記憶から消し去ってしまう方がいいのか?




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「オンカロ」に直接間接に関わる人々へのインタビューが
監督からたびたびなされる
10万年後に
「ここは危険だ」と警告するにはどうしたらいいのか


たとえばこんなサインは?

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こんな絵を描いておいたら?

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こんな案も出たという

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質問を受けた側は 事が重大なだけに
だれもが真摯に応えようとはしているが
それにしても10万年後を確かに想定することが出来ない

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内心の不安や懐疑を抱えての応答が続く
どうしても途中でため息が洩れる
お手上げだというような仕草も出る
黙考の末 沈黙に託す
「good luck!」で話を締めくくる女性もあった

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地下500メートルで着々と進められている工事
地表の動物たちは
目に見えぬ動きに敏感だ

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最後に使われていたアリアの一部は印象的だった

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原子力というパンドラの箱を開けた人類が直面する難問を描く
2010年 国際環境映画祭(パリ)グランプリ受賞作品だという


私には
触れられ
数字や線が書かれ
削られ 
爆破され 
地下から地上に放り出されていく岩を見ているだけで
胸がいっぱいになる作品だった


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# by skyalley | 2011-02-26 12:57 | 一枚の葉を森へ(no nukes)
『絵本 徒然草』橋本治



『古今集』のずっと後 鎌倉時代になって出来てきたのが
『新古今集』という和歌の集でな
ここに祝部成茂(はふりべのなりしげ)という人の

「冬の来て
 山もあらはに木の葉ふり
 残る松さへ峰にさびしき」という和歌が載っとる
冬の情景を歌ったもんだがよ、分かるだろ?

「冬が来て山も禿げ山になるぐらい木の葉が散って
 緑のまんま残っている松さえも 山の峰では寂しいぜ」
という、そういうこったよ

お若い諸君にゃ「だからなんだ?」だろうがな
まぁそんだけのもんだわ
そんだけのもんを「ああだこうだ」と
大の大人がより集まって論議をする訳じゃな

「大の大人がバカらしい」と思うのは勝手じゃがよ
逆のことだって考えてみろな

大の大人が
たかが冬の景色を歌っただけのもんを目の前にして
「ああだこうだ」と言っとったということはよ
そのたかが景色でしかないものを見る
見て感じる”自分の気持”ということを大切にしていた
ということだな

「大の大人がどうでもいい和歌の一字一句に目の色変えて」
と笑うのも勝手だが
それをしなければ自分の気持にウソが出るという
人間の根本に対して目の色を変えていた
ということも忘れて下さるなよ ということじゃな

「僕の言いたいことはそうじゃない!
 僕の気持が分かってない!」と言う前にだ
果たして自分は
他人に分かってもらえるようにキチンと
自分の気持を表現出来ているのかどうかも考えてみなされや
ということじゃな

大の大人が一字一句に目の色を変えるというのは
そんなことでもあるんじゃよ

自分の気持をキチンと表現出来てじゃ
しかもそれがオシャレにもなっておって
それで初めて”一人前”というのが貴族社会の常識でな

 
『絵本 徒然草』p.114 橋本治著 2005 河出書房新社



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午後 ようやく散歩の時間を作り砧公園へでかけた
小一時間歩いた後に
ケヤキが「空の路地」を織りなす下で
橋本治節を聴いた

夜の受業を楽しみに帰途についた
# by skyalley | 2011-02-24 11:19
唱歌「春が来た」


春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た

花がさく 花がさく どこにさく
山にさく 里にさく 野にもさく

鳥がなく 鳥がなく どこでなく
山でなく 里でなく 野でもなく



毎週火曜日の朝 祖師谷国際交流会館で
ご主人の留学のため来日したウミ・ファイさんと日本語の勉強をしている
外国人が日本語を学ぶときの一つの難しさは助詞
て・に・を・は などなど


今日 授業の最後に「春が来た」をウミさんに教えた
いくども繰り返し歌うウミさんだったが
終止が どうしても そ〜み〜れ〜しど〜 となる
曲本来のそ〜み〜れ〜そど〜 になってくれない


ご本人は何の違和感も感じられないらしく
ほかの部分を難しく感じておられるご様子
彼女個人のことではなく 何か文化的な背景があるような気がして
午後習字の勉強に来られた福島俊さんに訊いてみた


日本の歌には は ふぁ と し を使わず
どれみそら だけで成り立っているメロディはたくさんある
という特徴があるそうだ
ふぅん なるほど


「春が来た」の作詞者は長野の生まれ
何かがやってくる時は 山の向こうから という
そんな憧れを持っておられたのだろう
長野生まれの福嶋さんも同感だと仰った


春は 山から 里(村)へ そして野(平地)へと降りてくる


だんだんに春が近づいてくる期待が込められている
そして最後の一語 野「でも」の この「で」の一字の中に
もう どこででも春が感じられるのだ 
という喜びが溢れている


ウミさんに「春が来た」の歌を使って助詞の説明をしたら
アフリカ生まれで 
いつも寒い寒いと言っている彼女の表情が明るくなったような気がした
今 妊娠8ヶ月 4月の初めには出産の予定だ
待ち遠しい春にちがいない


昨夜の娘の話を思い出した
2月生まれの子供たちの誕生会で
孫息子の颯太は「せんせぇ は〜るがき〜た〜 うたおっ」
と申し出たそうだ


みんながテレビアニメの主題歌ばかりを大はしゃぎで歌っていたので
先生は颯太のリクエストがとても嬉しかった と
日頃から小学唱歌を愛唱し 
颯太にも歌っている私は その話にご満悦だ


颯太が描く母親もも像にも
手足だけではなく
頭からもなにやらが芽吹きだした
「春よ来い!」


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# by skyalley | 2011-02-23 09:58
靴のような靴下

金曜日の朝
栃木県の那須でパン屋A TABLE! を営む妹から
いつものように販売用のパンが届いた
箱の底の方に何か包みが見える
開封すると
きれいなきれいな色の靴下が出てきた

妹が手紙を添えてくれていた
曰く



この靴下の編み方は日本スキージャンプ界の草分け
猪谷六合雄さんが
既成のスキー靴下に飽きたらず
八年かかって考案 完成したものです
独自の記号と編み方なので
『暮らしの手帖』が「解読」
その号を れんちゃん(姪;私の長女)が送ってくれました

さすがに八年かけただけあって 型崩れがしない
足首と土踏まずのしまり
踵と爪先の立体感は必要から生まれた用の美 
感心しました

雪に閉じ込められた今冬
手持ちの毛糸とMさんに頂いた昔の中細・極細毛糸を組み合わせて
「毛糸や道具を新たに買わない」をテーマに編んでみました

色の組み合わせも楽しく
立体的になっていくのも楽しく
この冬の唯一の生産的行為

三足編んで手が慣れてきたので
そちらにも一足編みました
残念ながら最後の爪先部分で糸が無くなり
別糸となってしまいましたが
はいてみてください

これは靴下というより「靴」です


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手紙を読んで すぐに履いてみた
足にぴったり! 
やわらかでいて そしてしっかりした靴を履いているよう
すぐに足下がぽかぽかしてきた
いつも足が冷たくて 顔は火照るようだったのに
足下に重心が落ち 心地よいことこの上ない


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亡くなった母は編み物が得意な人だった
私はまったくできないけれど
妹 そして私の長女がその楽しみを受け継いでいる
すてきな力だ
それにしても中細・極細毛糸を使ったとは
何と手数がかかったことだろう
そのことを楽しいと思える妹
那須の高原に独り
雪に降り込められていながら
せっせと編み針を動かしている妹が
母が編み物をしていたときの姿と重なった


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# by skyalley | 2011-02-18 18:23 | うちのひとびと
門前の小僧


ある日の夕食後
4歳の孫息子・颯太が私に言った
「ね かっくんのなまえ かいてあげるよ」
   「おっ いいね 書いて 書いて」
「う〜ん むずかちぃなぁ(サ行が不得手)」
   「じゃ いつか書けるようになったらでいいよ
    待ってるね」
「あ ねぇ ねぇ えいご(英語)でもいい?」
   「いいよ お願いします」
「あ やめた やっぱり かんじ(漢字)にしよっと!」


颯太は話しながら手を動かしている


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生まれる前から ずっと
私の言葉の寺子屋「こころへ教室」に近く 育ってきた
学校を終え 仕事を終えたあとに
あるいは休日にも 
習字や英語 フランス語 そして日本語を学びたい
という方たちが来て下さる教室に
ちょこちょこ顔を出しては
机の上に広がっている紙やノート
私たちのお稽古中の会話を聞いてきた


とはいえ 彼にとって書ける平仮名は まだほんの少し
教えてはいないが 
ある日突然 書くようになった
そんな彼が 漢字だ 英語だ という


またある日の夕食後
「かっくん はっぱ ちょうだい」と教室にやってきた
私は時折 葉っぱを拾ってきては
その葉脈を写し取る「木拓」で遊んでいる
ノートに挟んであった何枚かの葉っぱを彼に手渡した
しばらくすると「できたよ〜」と持ってきた
一枚の葉を木に見立てて
いつか一緒に描いたように根っこも添えている


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私の教室では 幼い子供たちが平仮名を学ぶとき
どの字にも大きな海や空があるんだよ と教えている
ふところの大きな 豊かな文字を書いてほしい
そして一画一画が 実は一つの流れの一部だということを
感じながら書いてほしい と思っている
颯太と字を勉強したことはないが
彼はもらった教材を自分で見て
○印は平仮名の一部 と そう思っているらしい


書き終えてから
「かっくん これでうみのみず ながれていかないかな」
海を包み込むような柔らかな豊かな線で
書けているかどうかを訊いているのだ


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 「うん いいね!」と頭を撫でると
えらそうに
「じゃ あげるね」と言った
それから鋏を持ってきたかと思ったら
「はい じゃ そうちゃんがあげましたっていうしるしね」
と紙の角を切ってくれた


こんな調子で
彼なりに 毎日 周囲の様々な人々から
様々なことを取り入れ 料理し
人生を愉しんでいる
彼と彼を取り巻く人々に 世界に
幸あれ と願わずにはいられない


 
# by skyalley | 2011-02-15 01:52 | 孫息子・颯太言葉ノォト
今朝 窓辺で


思わず声をあげた


昨年11月頃 散歩をしていて
公園で一本の枝を拾った
茶の葉が二枚付いたまま そしてその元は芽の姿
はて この芽が古い葉を押し出すところだろうか


残りの芽はうっすら黄緑色をしている
折られた枝の中もいくらか湿気を残している
生きている
来年の春まで見守ろう そう思って持って帰ってきた


今朝 勉強にやってくる子供たちを待ちながら
天気を見ようと窓辺に寄ったら
 おっ ふくらんでいる
 薄緑の芽が ふくらんでいる!


3ヶ月以上 教室でいっしょに暮らしてきた
花瓶にいっぱい張っておいた水は
いつも飼い猫に飲まれていた
ぴちゃぴちゃぴちゃ


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昨日に引き続き また雪が降り出した


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# by skyalley | 2011-02-12 10:15 |
みえるもの と みえぬもの と

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戦争前にうまれたひとと
戦争後にうまれたひととが繋がる
そんな集まり「徳談会」を日曜日に無事終えられた


孫息子の颯太を保育園に早く迎えに行って砧公園へ
放たれた颯太は 走る 走る 転ぶ 笑う 
火曜日の昼過ぎ ひとはまばら


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見えないはずの空間に「みち」を見
名付けた「空の路地」の写真を撮りつつ散歩
4月で彼も5歳


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いっしょに「空の路地」に見入ったり
ブランコに乗りながら 
路地があることを教えてくれるようになった


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木々の梢は いまぐんぐんと水を吸い上げ
芽吹きのその瞬間を 今か今かと待ち構えている
ちょうど颯太が そうであるように


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# by skyalley | 2011-02-10 09:54 | 空の路地
子猫の小雪



さきほど記事を書かせてもらった一杉燃料店のご主人から
ハート柄の付いた新入り娘の写真を送ってもらいました


  小雪ちゃんは3ヶ月半を過ぎて
  この頃は女の子の準備なのか
  身体中からフェロモン出しまくりで
  悶えまくって居ます。


だそうです

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多摩川の河原で凍え死ぬところだった 
なんていうこと
早く忘れてしまえ〜 小雪さんや
# by skyalley | 2011-02-09 12:29 | BUTTON日記
「あ 猫ちゃんだ」 一杉燃料店


最近は石油ストーブを使っている家庭は少ないらしい


一昨年の冬の初め
配達に来てくれていた灯油屋さんに電話をしたら
「割に合わないので店頭販売だけ 配達はしない」とのこと
二缶分40リットルを
自転車でふぅらふぅらしながら家の者と運んだこともあったが
すぐに断念
電話帳で調べて偶然電話をしたのが
一杉(ひとすぎ)燃料店


注文を受ける電話口の声に「どうぞ どうぞ」という響きがあった
やがてやってこられた一杉さん
電話に出られたのは父上だとのこと
タンクに灯油を満たして
さて料金を という段になったら
私について玄関まで出て来た飼い猫のヨシダを見て
「あ 猫ちゃん!」
「お宅も飼っていますか?」
「は〜い います います じゃ どもぉ!」
気持ちのよい声を残して去って行かれた


以来 二回の冬の間 二週間に一度は配達をお願いしている
先日 お支払いをして一杉さんを見送ろうとしたら
車に乗り込む直前 一杉さん 
くるっと振り返って 携帯電話を取りだしながら
「昨日 うちの坊主が まぁた馬鹿で
 多摩川で野球やってる時に 捨て猫をみつけたんだって
 練習が終わったら連れて帰ってやるからな と猫に言ったのに
 忘れて帰ってきやがって
 夜 風呂から出たら ああっ 大変 猫忘れてきた!! って
 そぉれから懐中電灯もって多摩川行って
 あの辺だったっけ この辺だったっけって探して
 ようやく見つけたら マフラーかなんかの上に座ってんの
 飼い主か誰かが可哀想だと思って 入れてやったんだね
 それがね ハートのマークがついてるのよ」

そして携帯電話を操作して その猫さんの写真を見せてくれた

それから
「うちの犬 大変なの 今 女房が病院に連れていってんだけど
 いつもは店のシャッター開けると
 飯だ 飯だ って吠えるのに
 あれぇって うんでもなけりゃ すんでもないの
 見たら息絶え絶えで横になってるじゃない
 昨日まで何ともなかったんだけど・・・」


私は一杉さんにお願いして
猫さんや病院に連れて行かれたというネオゾウの写真を
送ってもらうことにした
検査の結果 ネオゾウは珍しい病気にかかっていて
「今日にも手術 涙目になったり 胸なで下ろしたり・・・」
と昨日の電話の一杉さん
ご家族みなでさぞ心配をなさっていることだろう


綿雪の朝を迎えたとはいえ
やはり春の気配は否めない
暖かくなったら一杉さんとのおつきあいは
今度の冬まで一休み
灯油代は無くなるけれど 
一杉さんとの会話が無くなるのは寂しい


どうぞ痛みが最小限に抑えられますように
一日でも早くご家族のもとに帰れるように
ネオゾウのために 春よ 来い!


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一杉燃料店 屋号 寿美屋
157-0071 世田谷区千歳台6−4−20
03-3300-2762 090-3212-6447
8:30 ~ 17:00
土曜日半日 日曜祝日休み
# by skyalley | 2011-02-09 11:49 | BUTTON日記
第15回徳談会 岡本克之氏の記憶から


西村英二先生をお迎えしての第15回徳談会のあらましを
参加された岡本克之氏より寄せられましたメールより
氏のご快諾を受け
原文のまま掲載させていただきます


   。。。。。。。。。。



「初めての人とお話しするとき、よく聞かれることに、お国はどちらで というのがあります。僕はあれが苦手でしてねぇ。はぁ って言うと、ご出身はどちらでいらっしゃいますか とくる」

「まぁ、周囲も同じ時代を生きてきましたから、特段の苦労をしたとも思わないです」
祖師谷の留学生会館で留学生にボランティアで日本語を教えていらっしゃる西村英二さんは、かなりの激動を生きてこられた。

「生まれはイギリスのロンドンです。生まれてすぐ、母親が病弱だったものですから、ナースをつけて、僕はナースに育てられました。
ナースとの会話は英語。母親もナースと話しをしなければいけませんから、英語で話す。自然、家の中の会話も英語でした」

大正15年(1926年)のお生まれ。

「日本へ帰って住んだのが、芦屋。当時は、芦屋村。なかなかハイカラな村で、髪の毛伸ばして半ズボンはいていても、違和感のないところでした」

「ところが、父親の仕事の関係で、今度は福岡へ。九州男児に非ずんば、といった気風のところで、頭は丸坊主。変な奴が来たということで、いじめもありました」

「小学校の5年生になると、今度は京都へ。京都弁は、前に関西で過ごしたことがありましたから、前から住んでいたような顔をしてました。
もっとも、5年6年あたりになると、皆中学校への進学に勉強が忙しくって、そんなことを気にしている場合じゃなかったということもあったでしょう」

「進学すると今度は東京です。最近はあまり言わないそうですが、標準語、東京の言葉もきちんとこなしたのですが、帝都線(井の頭線)で通っていたのが、電車が混んでおりられない、思わず出たのが おりまっせぇ。電車中に笑われました」

「今度は父親が満州へ転勤になります。大きなアルミニウムの工場を建設するということで、その責任者として赴任するのですが、すでに戦争がはじまり、昭和19年(1944年)にもなると、これは日本本土は危ないんじゃないか、もしかすると、天皇陛下も満州にお渡りになるかもしれない というような話もしていました」

「1945年8月15日で戦争が終わると、両親とは離れ離れになってしまっていました。
どうにかこうにか、高校だけは卒業したのですけれど、大学に進学しようにも金がない。ちょうど昭和19年に母親がキリスト教の信者になり、私にも信者になるようにと言われたことがきっかけで、外国人神父の知り合いがありまして、金がないなら、仕事を紹介すると言われ、アルバイトに行ったのが、極東国際軍事裁判所 」

WOW!

「私はロンドン生まれで、当時はまだ日本国籍とイギリス国籍の二重の国籍を持っておりまして、進駐軍用の物資を買えるとか、ときどき満員電車を避けて進駐軍用の車両に乗ることができたりとかいう恩恵もありました」

「極東軍事裁判所で驚いたのは、勤めた翌日から、フランシスという名前で呼ばれたことです」
フランシスは、西村さんの英語でのお名前。

「仕事は、裁判の証拠書類、被告の尋問調書などの整理です。判事が、あそこにこんなことが書いてなかったか?というと、僕が書類を読んでいって、ああここにありますよ といって翻訳をするというような仕事でした。検事もきさくな人たちで、キーナン主席検事なども、お前はこの裁判をどう思うとか、僕に聞いてくる 。自分たちが過去に何をやったかには触れず、あとから日本がやったことだけを証拠に採用する、こんなの勝者が敗者をさばく茶番だ と批判しても、それを採用するしないということは別としても、ちゃんと聞いてくれました」

***

「しばらく働くと、お金もたまり、どうやらこれで、大学3年間はやれそうだという目処が立って、東大の法学部に進学します。ところが、入学したとき年間2000円だった授業料が6000円になるという。こっちは2000円で計算しているのに、それでは、成り立たない。学費値上げ反対闘争が始まり、僕は闘争副委員長になりま す。共産党の人たちは、授業ボイコットを唱え、僕は授業ボイコットは権利放棄だからするべきではない。授業を受けるのは学生の権利であるから、それを放棄することはナンセンスだと主張しました。
当時、僕は外交官になりたいと思っていたのですけれど、いざ試験を受けようとしたら、敗戦で外交官はいっぱい海外から戻ってきているので、今年の採用はないと言われます。それには文句言うわけにもいかないので、今の三井物産の前身の一つである第一物産という会社に入ることにしました。
ところが、会社に入るにあたり、卒業証明書を持ってこいという。事情を説明するのですが、卒業証明書を持ってこなければ、会社に入れることはできないという。しょうがないので、大学に頭を下げて三年分の授業料を払い、卒業証明書をもらうことにしました」

「第一物産に入ると、大阪支店を大きくするからそちらへ行けと言われ、大阪支店に入ります。二年ほどたつと、当時就業生制度といって、一年海外で勉強させてくれるかわりに、一年海外で勤務するという留学制度の試験を受けろという。試験を受けたのかどうか記憶にありませんが、当時僕は既に結婚しておりまして、あ とから既婚者はダメだという。それはひどいというと、ならば、君を転勤させることにしようという。
転勤と就業生とどちらがいいのか比較してみようということで、当時、転勤というのは課長以上しかなかったものを、僕は転勤することになりましてニューヨーク支店に赴任することになりました」

「ニューヨークに行くことになり、家内を同伴したいと会社に言ったのですが、既に君の給料だけでも社長より高いのに、家族同伴などとんでもない、悪いようにはしないから、ということで、単身で赴任しました。
ところが、待てど暮らせど、会社からは何の音沙汰もない。指輪をしていると奥さんはどうしたと言われるのが面倒なので、指輪も外してしまうようなところで、ようやく3年たって、家内を呼ぶことができました。」

「都合6年ニューヨーク支店におりましてから本社勤務で帰国しました。もうその頃は三井物産になっていました。ニューヨークに居ると、日本のお客さんの観光案内も仕事です。ナイヤガラなど何十回も行って飽きてしまいました。ご案内したお客さんの中の一人の社長さんが、僕を気にいってくれて、ウチの会社に来てく れという。ニューヨークで6年お世話になって帰国したとたんに会社を変わるのでは、さすがに申し訳ない。お断りをしようと思ったのですが、会社のほうが、どうせ将来はまた一緒になるのだから、悪いようにはしないからと言ってそちらの会社に行けという。
それで、台糖ファイザーという会社に行くことになりました。製糖会社というのは、クリーニング業なんですね。原糖を白くして卸すだけ。生産もなければ販売もありません。
そこが、製薬会社と合弁で設立した会社です。その頃、日本の製薬会社の仕事のやり方は、富山の薬売りと全く一緒。製品を預けておいて、使った分だけあとでお代をいただく。
ファイザーに、こんなやり方ではダメだ。お前を海外に行かせるから、商売のやり方を勉強してこい と言われ、フィリピン、そしてオーストラリアと、商売を勉強しに行きました。確かにやり方が全然違う。
当時、日本にはマーケティングという言葉はありません。僕は、日本で初めてマーケティングを商売に取り入れることになりました」

「製薬業界のお客さんは、お医者さんです。お医者さんは自分で何でも知っていて、僕らは教えていただく立場。それが商売のやり方にも反映します。教わるだけでは、新しい商売にはつながらない。そこで、需要創造ということを始めます。こういうときはどうする、ああいうときはどうする とお医者さんの話を良く聞い て、それではこういうものがあったらどうだろう と逆に提案してみる。そうすると、そういうものがあればということが出てきて、ならば、こういうものがあります と商売になる。それが需要創造です」

「そうこうするうち、台糖ファイザーはどんどん大きくなり、増資につぐ増資で、資金力を高める。台糖ファイザーは、台糖とファイザーが50%−50%で出資した会社です。最初のうちは、台糖も増資に応じていたのですが、だんだんとついていけなくなる。
ファイザーは、ならば自分だけで増資していくと言いだし、一方、厚生省は、国民の健康を守る製薬会社は外資50%が上限で、それ以上はまかりならんという。
そこで、しょうがないから、株を三井物産に預け、三井の出資で対応しようということになった。ところが、今度はファイザーが食品、医薬品の会社ならば良いが、日本の商社などに出資させたら、何をされるかわからないから嫌だという。
暗礁に乗り上げたところで、最後に折れたのが厚生省。以後ファイザーが増資をしていき、最後は100%外資となっています。
僕もファイザー本社に行って事情を説明するなど、交渉に関与していましたが、その過程で、外資というものはいかがなものかと思い、イギリスのファイザーを訪ねたことがあります。
既にイギリスのファイザーはほぼ100%外資でしたが、彼らによれば、我々は資本は入れるけれども、経営は経営でしっかりやれば良いではないかという。
それならば良いかということで、僕らもファイザー側の資本が50%を超えて行くことを容認することにしました」

「やがて、社長交代の話しとなり、僕は台糖側から推されて社長候補になりましたが、ファイザー側から出たほかの候補が社長になり、イギリスではああ聞いたが、やはり資本はしっかり確保しておかねばダメだ と思いました」

「やがて定年となり、ファイザーを離れ、日本テクニコンという血液検査の会社に入りました。いくつもの複合項目の検査を一度にやることのできる機械の会社で、全国の病院にその機械を入れようというかなりのシェアを持っていました。ところが、株主が会社を売るという。
よそに買われるのもいやだということで、役職者が金を出し合って、会社を買収しようとしたのですけれど、最後に残った相手がバイエル。お金がありますから、あちらのほうの提示金額が高く、僕らは損をすることはありませんでしたが、持っていた株をバイエルに売り渡し、会社はバイエルのものとなりました。
しばらくして、私が65歳になると、バイエルが実は労働組合との協定で、全世界のバイエルでは、誰であれ、65歳を超えて社員、役員であることまかりならぬという。
労働組合との約束ではしょうがないということで、そちらを退職し、今度はメディカルジャーナルの会社の顧問ということになりました。
そちらは、医薬品会社の広告宣伝を扱うところで、西村さんもいらっしゃいますからとか言って、ファイザーから商売もらっていたんでしょう」

その頃、ご自宅近くの東京教育大=筑波大の農場跡に留学生会館ができるという。まわりの人たちは、最初のうち外国人が街に来るのは困るといって反対。
たまたま西村さんのお話しを聞いておられた、小林善彦先生は、その頃、留学生会館を作ろうという方面にも関わっておられ、地元の要望はなるべく受け入れるようにとご指導なさったという。

「当時は、畑の真ん中に留学生会館が出来た状態で、周りにはスーパーのような生活インフラが何もない。留学生の人たちに自由に材料を使って料理していいよと、わが家をオープンキッチンにして、お役に立てることにしました」

そういったところで交流が始まり、やがて、西村さんは、留学生に日本語を教えることを始められる。

「日本語を教えるといっても、単に文法を教えるだけではならない。相手を好きになるというか、日本語の背景にある文化を語らなければ、言葉を教えることはできない。
日本は特別だなどと傲慢なことを言っていてはいけない。話しをしてみれば、世界中の人々が同じことを考え、同じことを言っていることがわかります」

今日、留学生会館(国際交流会館)の運営は、建物周辺の方々のご協力、ボランティアもあり、以前よりは順調であろう。
しかし、問題は以前山積である。
西村さんは、単に日本語を教えるだけでなく、会館の運営、留学生の生活、その他いろいろな問題についても積極的に取り組まれておられる。

あるとき、留学生会館の隣に土地があり、そこにクロネコヤマトが配送センターを作るという。せっかく留学生が静かに勉強する環境に、配送センターなど作られてはたまらない。反対をするが、らちが明かない。
見かねた西村さんは、直接クロネコヤマトの社長を訪ね、事情を説明。理解を求めた。
「クロネコヤマトのあの社長は、立派な方だと思いました。話しを聞くなり、計画を取りやめ、今、その場所はマンションになっています」

留学生の生活にもいろいろな問題が起きる。
日本の大学教授は会議会議で追いかけられ忙しい。コミュニケーションがうまくできない留学生のお世話はどうしても、ないがしろになりがちである。
自分と異なる意見の学生には、学位を与えないということもたびたび起こる。
留学生同士も、それぞれ自分のことに没頭し、横の交流もままならならず、相談する相手もいない。
一人の留学生が自殺。西村さんは、大学に赴き、指導教授に事情をお聴きになった。最後に教授は、非を認め、留学生の指導がなおざりになっていたことを謝罪した。

多くの人々が、海外から日本へ、より多くの留学生をという。
留学生会館を作り、環境を整えたといっても、留学生制度本来の目的は、そこから先のこと。
東京にある一部の留学生だけが恩恵を被るだけのもので良いのか、という課題もある。
制度、設備だけを整えても、留学生を受け入れる人の充実がなければ、留学生受け入れ本来の目的は達成されない。
意義ある留学システムの持続、発展には、西村さんのような方々のご尽力がまだまだ必要なのである。

人生至るところに青山あり
数奇な運命を生きてこられ、今また海外からの留学生のために尽力される、西村さんはそのようにおっしゃる。

小林善彦先生らとのお話しの中で、厳しいご指摘も。
「留学生たる者には、留学生たる心構えも必要」


   。。。。。。。。。。。



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質問に立たれる岡本氏
手前左から西村先生 赤いジャンパーの鹿野先生 後ろ小林先生

ありがとうございました
# by skyalley | 2011-02-08 08:54 | 徳談会日記
第15回徳談会を終えました

立春を迎えると
例年なら「早春賦」の歌を思い出すのが常でした

  春は名のみの風の寒さや

春とは名ばかり この風の寒さをどうしてくれるのでしょう
あの歌そのままの気持ちを噛みしめたものでしたが
今年は本当に「立春大吉」! 
そして2日後の徳談会当日も 
春のさきっぽに居ることがありがたいお日和でした


初めて経堂のカフェ・マレットでの集会
店主ご夫妻の快いご協力 そして
いつものように参加者の方々にお手伝いいただいて
受付や客席作りも円滑に進み
講演者の西村英二先生をお迎えしました


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先生が責任者を務めておられる祖師谷国際交流会館から
二人の日本語教室の先生もおいでになっており
80代の西村先生 70代の二人の先生
そして少し遅れて90代の鹿野先生(前回の講演者)が加わり
開会までの時間 話に花が咲いていました


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1926年にロンドンで生まれてから
5歳で帰国後 御尊父の転勤により各地を移動
日本人のさまざまな偏見に会う体験を経て
19歳で知人のドイツ人神父によって紹介されたアルバイト先が
極東軍事裁判所


そこで勤め始めて翌日には
先生のクリスチャンネームであるフランシスを
みなが覚えてくれて そしてそう呼んでくれたこと
高名な検事でさえも 当時若造であった先生に
「日本人としてどう思うか」と意見を求め 
まじめに耳を傾けてくれたこと
そのことに大変感激をされたそうです


その後 商社や製薬会社を経て
国内外で様々な経験を積まれ
退職後 日本語教師養成所に入り資格を取得
定年までの人生を実に簡潔に明快に
なお余裕を持って1時間弱で前半の話を終えられました
 

お茶の時間を挟んで 後半は
祖師谷国際交流会館で20年以上に亘り
海外からの留学生を援助してこられた話
奥様は すでに保証人役など
自宅を開放してボートピープル援助に努めておられた由


  国際交流において 一番大切なのは
  「相手を好きになること」
  わからなくても親しく 一所懸命聴こうとする姿勢
  言葉だけではなく その背景となっている文化を知ること
  それが せめてできる世界平和への第一歩


質疑応答の時間も 閉会までたっぷり1時間取れましたので
さまざまなご意見やご感想を頂けました
特に西村先生と同年代の小林善彦先生
更にご長命の鹿野先生との質疑応答は
含蓄に富んだ 感慨深い内容でした
その内容は後日記すことにします


小学校からの幼なじみ岡本克行さんのご紹介で
初めてご参会くださったROBERTO DE VIDOさんのご厚意により
VIDOさん撮影の写真もお借りすることができました
会場のなごやかで熱心な雰囲気を感じていただけると思います
ありがとうございました


ご講演くださった西村先生 ありがとうございました
ご参会の皆様にも感謝申し上げます
また閉会後「愉しかったわ」「聴き入りました」と
笑顔で仰ってくださったカフェ・マレットのご夫妻にも
重ねてお礼を申し上げます
ありがとうございました


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# by skyalley | 2011-02-08 01:15 | 徳談会日記
コンピューターを新しく


してもらいました


7年間使って 斃れたMACでした


やれやれ


とはいえ 私はそばで見守っていただけ


オットがすべての面倒を引き受けてくれました


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ありがたいことです


メールが繋がらない間はたった数日でしたが


ご面倒やご迷惑をおかけした方々には申し訳ありませんでした


それにしてもコンピューターに詳しいひとが家の中にいてくれることの


何とありがたいことか


あらためた深く感謝 感謝です
# by skyalley | 2011-02-06 00:46 | BUTTON日記