触ることからはじめよう
by skyalley
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第13回徳談会 無事に終えることが出来ました
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暖かな日に恵まれた11月28日 日曜日 
講師に安嶋彌先生(88)をお迎えして 
おかげさまで第13回徳談会を無事終えることができました


日本エッセイストクラブ会長で
東京帝国大学同期の安嶋先生をご紹介下さった村尾清一氏
安嶋氏と同じ旧制第四高等学校(通称四高:しこう)
そして同じく海軍に属しておられた竹井朖(あきら)氏も
奥様とご一緒にお見えになりました


第13回徳談会 無事に終えることが出来ました_f0085284_1846080.jpg



最初の一時間で「教育勅語」が成立するまでの
歴史的背景や経過が語られました
教育勅語の内容を知るのみであった多くの参会者にとっては
先生のレジュメにあったように
「明治初年 文明開化の中 風教・風俗の乱れは著しく
 これにどう対処するか」という大問題に関し
提案された様々な案を知ることが出来
質疑応答の時間に 30代の中村吉男氏が謝意を表したように
大変ありがたいことでした


安嶋先生は社会学者・清水幾太郞の意見
「額縁(教育勅語の第一・三段)がつまらない
 (皇国史観に基づいている)からといって
 絵(第二段)がつまらない訳ではない」を引用されました
そして教育勅語に法規範力を与えたのは文部省であったが
法規範力がないとはいえ 
法律などによる公の管制になじむものかどうか 
その方式自体が問題である との提示されました
先生は事実を述べるに留まり
ご自身のご見解には触れられませんでした


副題の「四方山話(よもやまばなし)」は
先生ご自身がお決めになったのですが
「教育勅語」のお務めを終えられ 
休憩後の先生は 脚をゆるりと組まれ
それからのお話は融通無碍の感
政治・経済・歴史・文学・心理学・社会学など四方に亘りました


「学校教育における道徳について」という質問に
「心をきれいに」とよく言うが 
蛇蝎の如き心をきれいになどなかなかできるものではない
まず「行い」 
それに心を添わせて成長するように とお応えになり
心に残りました


最後にご自身の詩の一編「幼き者へ」を朗読して下さいました




幼き者へ
               安嶋彌

 

孫たちよ。
不思議な縁でお前たちと出会った。
寂しいけれどもいづれ別れのときがくるだらう。
孫たちよ。
健やかにあれよ。
弱い者をいたはれよ。
友を選べよ。
自らを限るなよ。(*)
何ものを侍(たの)まず 
誇をもって励めよ。
安楽は人間を卑俗にする。(**)
急ぐな。しかし休むなよ。(***)
憤りを発せよ。 (****)
明日では遅いよ (*****)
貪(むさぼり)と瞋(いかり)と痴(おろかさ)を去れば (******)
心は平静とならう。
厭世は不毛だ、慨いたとて何にならう。
蹉跌(さてつ)にもめげず
溌剌(はつらつ)とあれよ、澄朗であれよ。
涙をふるって、ほほゑめよ。
時には空を仰いで流れる雲を見よ。
煌く真紅の日の出、日の入も見よ。

ごきげんよう、さやうなら、さやうなら。 




* 「論語」(雍也)「力足らずとする者は、中道にして廃す、
   今汝限れり」
** ゲーテ「ファウスト」
*** ゲーテ
**** 「論語」(述而)「憤せざれば啓せず」
***** 沈休文「長歌行」
  「少壮にして努力せずんば老大徒に傷悲せん」
  漢武帝「少壮幾時ぞ」(秋風辞)
****** 仏教にいふ三毒



 
先日『徒然草』を読んでいたら
「なまめかしい」という言葉がありました
男女関係について何となく気を引かれるさま 
という私が知っている意味とは違った遣われ方をしていたので 
あらためて古語辞典を引いてみたら
原義は
「色・様子・形・人柄などのよさ、美しさが、
現れ方としては不充分なように見えながら、
しっとりと、よく感じられるさま」『岩波古語辞典』
とありました
      
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「もっと海軍の話ができたらよかったですね」と


安嶋先生と竹井氏とのご縁に声を掛けられた村尾氏
四歳上の竹井氏に相対し
「それでは先輩」と声を掛け
背筋の通った後ろ姿を残し去って行かれた安嶋先生
「実る稲穂」であり
また「なまめかしい」三人のお姿が眩しく見えました


ご参会下さった方々はいかがだったでしょうか


後日早速に
私の小学校一年からの同級生・岡本克行氏より
会の様子を克明に伝える内容のメールを頂きました
岡本氏の御了解を頂き
以下 感謝を込めて転載させて頂きます



なお 私のコンピューターの不具合により 
ご報告が遅れましたことをお詫び申します
また
私が安嶋先生 村尾氏 竹井ご夫妻を駅まで送っている間に
会場や茶道具の片付け 会費の精算など
すべてを終えておいて下さった方々に感謝致します
ありがとうございました
::::::::::::::::

岡本克行氏より


11月28日 徳談会第13回目は安嶋彌氏。
1922年(大正11年)石川県生
第四高等学校、東京帝国大学卒
1946年文部省入省、初等中等教育局長などをへて1975年文化庁長官。1977年から1989年(平成元年)まで宮内庁東宮大夫
アララギ派の歌人でもあられ、歌集のほか著作も出版されている。

教育勅語成立の経過から始まり、安嶋さんのお話しは、明治以来の日本史をなぞる。漂うに見えるは、文部省局長→文化庁長官→東宮大夫というご経歴が、ご自身の意見ご開示に枠をはめるものか。
いや、頭の中で再構成していくと、安嶋さんのお話は、思わぬほど大胆に踏み込んだご発言であることが分かってきた。
余韻の中に、私たちは、自分の頭で考え自分の考えを紡ぎ出すことを要求されている。

安嶋さんをご紹介いただいた元読売新聞記者、日本エッセイストクラブの会長の村尾清一さんは、「東宮大夫は、皇太子殿下を天皇陛下にするのが仕事。昔ならば、東宮(皇太子殿下)が天皇にならないときは命を失う立場でした」と東宮大夫の重責を表現された。
東宮大夫は1977年から1989年まで。お仕えしたは今上陛下。
延べ13年の東宮大夫は、今日言う天下り官僚の腰かけポストではない。まさに、お仕えした皇太子殿下を天皇陛下としてお送りし、職を無事全うされた。

***

六三制世代は、教育勅語を直接は知らない。
若い順に言えば
知らない
知ってはいるが、読んだことはない(知らないと同義)
読まずに反発(これも知らないと同義)
戦前、戦中道徳観の否定
今は否定された昭和20年8月15日以前へのノスタルジー
といったところが、各世代の代表的感覚?

それはともかく、とかく、現代において保守反動の象徴的に捉えられる教育勅語。
しかし、形として現れた教育勅語のみをとらえ功罪を語る今の論議は浅薄と思う。
安嶋さんからの成立過程ご披歴に、明治の初期、教育の在り方に深い議論のありたことを、改めて認識する。

1.明治初年、文明開化の中、風教、風俗の乱れは著しく、これにどう対処するかが問題となった。
2.伊藤博文はこれを世変の余であるとし、旧制には復すべきでなく、また国教の建立は、賢哲の教えに待ち、政府の管制すべきところではないとした。これに対して、侍講の元田永孚は、聖天子の教訓に基づき、国教を建立し、その根幹は祖訓であるべきとした。
3.伊藤博文、黒田清隆、榎本武揚、森有礼、井上毅は国教の樹立には消極的であった。積極的であったのは、山県有朋、芳川顕正、元田永孚であった。
4.教育勅語の原案起草に当たった井上毅は、道徳の本源としては、天、神、漢学の口吻、洋風の気習、哲学上の空論を避け、皇祖皇宗の「遺訓」であるべきとした。
しかしその徳目は結局、儒教の五倫に近いものとなった。
5.西村茂樹の位置は、恐らく中村正直と元田、井上との中間であろう。
6.教育勅語は詔勅とは異なり、下賜は事実行為である。また本来勅語には必要のない御名御璽があり、宮中で下賜されるなど、異例づくめであった。勅語は、国務大臣の副署名を要せず、元来法規範力がない。これに法規範力を与えたのは、文部省令であって、これは敗戦直後に否定された。
7.戦後、新教育の方向を示すため教育基本法が制定されたが、これは戦前の教育勅語体制を改めるための、やむを得ない経過措置であった。
8.教育勅語や教育基本法の前文お呼び第一條の内容のごときが勅語(法規範力がないとはいえ)や法律などによる公の管制になじむものかどうか、その方式自体だが問題である。ちなみに、世界で教育基本法の如き立法例は、日本と韓国の他にはない。
ー講義ノートより

特定宗教に依らず、国家主導であることを極力避け、○○すべからずなどの禁止を避け....
いわばリベラル派の伊藤博文、黒田清隆、榎本武揚、森有礼、井上毅と、
対立する保守の山県有朋、芳川顕正、元田永孚
政治家、官僚らが自ら筆をとった迫真のやりとりが、書簡に残る。

審議会など形式上の手続き、隠れ蓑の方便で、実態は細部までの官僚まかせ。表面的、瑣末な議論に時間のみを費やした先般の教育基本法改正をおもうに、明治の議論がいかに本質に迫るものであったことか。

しかし、結果として文章に現れた勅語は儒教の徳目をなぞり、のちに形式主義、国家神道原理主義の台頭をゆるした。
議論を尽くし、原理主義に流れるを避けたはずのものが、なぜに?
その疑問を含め、安嶋氏は記録を羅列される中で、聴く者に「自ら思考せよ」と迫られたのであろう。

***

教育勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ�ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ�器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其�ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
  御名御璽

安嶋氏は、元来日本語には、段、文章を分けて書くという概念はなく、
勅語を段に分かてば(現行の勅語は分かち書きされているもの多し)

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ�ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ�器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其�ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
となる。

下線部(第二段)をはさんで、三段に分かれ、第二段が「絵」、
前後の第一段、第三段が「額縁」と解説
絵が本旨であり、額縁は元田らの意見を容れて付け加えた部分?
安嶋さんは、「額縁がおかしいから絵も悪いということではない」と

しかし、安嶋さんのご真意は、教育は本来的に自由であるべきで
そこに、国家が関与するはなじまぬものとのところにおありではないか。
逆に言えば、高校授業料の無償化は、教育の機会均等を保障するに見えて、学の独立を阻害するものでもある。

***

お生まれは、大正11年。1922年。宅の父と同年。
その年、山県有朋、大隈重信、森鴎外死去
あけて翌年関東大震災

安嶋さんは、年表を座右の銘とされ、「年表を横に読め」と言われる。
「人間は忘れやすいから」とも。
事象のありたあたりに、ほかにどのようなことがあったか
さまざまな事象の中から、どのような時代であったかが浮かびあがってくる。

長州閥、保守反動の象徴山県と、ポピュリスト大隈が同じ時期に亡くなる。或いは明治の文豪も。
政治家としての大隈を、安嶋氏は「それほど高く評価はしない」
同感。
対華二十一カ条要求の当事者、総理大臣である大隈には、かつて明治に征韓論を排し、自由民権運動を主導し、条約改定に苦しみ脚を失うにいたった若き日の気概を見ない。
在野精神の象徴たる大隈晩年の実態は、長き在野に倦み、政権への復帰、維持のみが目的となっていたのだ。
翻って、菅直人現総理もあまりにも長く野にあり、ために政権獲得と維持が目的となってしまったものか?
明治のご維新から半世紀弱
日清日露の戦役に勝ち、朝鮮半島を併合、
世界五大国の一角を占めるに至り、
日本は驕り昂った。

安嶋さんは、「しかし、日本は、水以外に何の資源もなく、いかにも脆い国である」とご指摘になる。
「その脆さを一番よく認識していたのが軍部だったのでしょう」
焦りからの圧力、驕りに大隈は迎合し、
彼の内閣による対華21カ条要求は、
今日中国に色濃く残る反日の根源となった。

この時期さらに
昭和天皇摂政の宮となられ、
関東大震災で江戸は最後の終焉
明治が終わり昭和への道が始まる

明治にわずかに残りた「形式主義・原理主義にとらわれない江戸」は、昭和において同じく終焉。

昭和初期は世界大恐慌
脆さが露呈し、日本でも不況の時代が続いた
安嶋氏は、日本の不況を農業恐慌と喝破
豊作で米価格が低迷する一方、世界恐慌で外貨を稼ぐ茶、生糸が輸出不振
困窮した農家は娘を売り、安嶋氏の小学クラスにも売られてきた娘が2人

売られてきた娘が学校に通学し、その娘たち欠食児童に給食したのも日本である。
今日、なお、世界の多くで、貧困は子供たちから就学の機会を奪っている

アメリカはTVAはじめニューディール=公共事業に、
日本は、満州事変から支那事変と、対外進出に
それぞれ恐慌の解決を求めた。

おかしなことに、戦争が始まると景気が上向いた。
戦争は究極の浪費ではある。
しかし、戦争よりは浪費。
適切な公共事業が無ければ、穴を掘ってまた埋めよ。

戦後日本
農村の疲弊が、戦争につながっていったことの反省から
農地解放に代表される農業、農業従事者保護が国の政策に色濃く反映される
今や生産性はピークに達し、農業は、戦前の労働集約産業ではない
戦前に就業人口の80%を占めた農家は、今や8%
そのほとんどは兼業農家である
役所、農協、銀行といった主たる収入源に対し、農業は副収入でしかない。
しかるに農業保護政策は、政権が変わっても、政治、政治家に深く根をはりめぐらし、
TPP加入を展望したとたん、農業団体からの強い反発に菅政権は腰が引けた
わずか8%の、それも多く農業に収入を依存しない人々の反発に、80%の人口を占める都市住民が振り回され、それでいて、何ら反発もない不思議な日本という国。
復興は、1980年代にピークを迎える。
Ezra VogelはJapan as No.1と言い
安嶋さんが侍講された当時の政府、日銀首脳の中に、将来への危惧を述べる人は少なかったとおっしゃる。
日本は戦後40年を経て、再びおごり昂った。
しかし、数年を経ずして泡ははじけ、失われた10年が始まった。
日本の実態は、未だ脆い国でしかなかったのだ。
故人となられた某日銀首脳は、生前バブルへの道を拓いた自責をひそかに吐露されていた由。

当代日本は、もはや輸出に活路を見えず内需拡大を言う。
しかし、現代日本は、世界的に見れば、もはや物質的にもサービス的にも、ほぼすべてが充足されている。
「私たちは、まだ使えるものを捨てて、新しいものを買っています。日本が捨てている食品だけで世界の飢餓を解消できる?本当なのかもしれません」
しばらく前までのブランド品大ブームは、
「自己顕示のための消費」と分析。
ベンツにお乗りになる方に、本当の一流はいらっしゃらない?
内需拡大は却って、資源、エネルギー消費増加をもたらす?
「ブランド消費に良いところがあるとすれば、価格のワリには原材料を浪費しませんね」
何をもってして、内需は拡大するものか?
私たちが、未来に託すはなにものなのであろう。
未来日本への危惧を吐露されつつ、安嶋さんは、村尾さんの示唆に従い、お孫さん方のために作られたご自身の詩を朗読され、お話しを終えられた。
静かに流れる日本語は教育勅語の如き美文調でも、むろん、教育基本法のような味気ないものでもなく、ご心情を惟ふ。
# by skyalley | 2010-12-04 18:37 | 徳談会日記
工夫のひと
たとえA社とZ社は「犬猿の仲」と言われていようが
仕事は会社と会社がするわけではない
オットはたまたまA社に勤めるよき人と仕事をし
Z社に勤める信頼のおける人を知っていたので
先日 その二人の紹介を思いつき 早速 機会を作った
私も遅れてその席に加えてもらったが
すでにその場は 和やかで創造的な雰囲気に溢れていた


大人になってよかったな と思うことはいっぱいあるけれど
自分から望まなければ試験が無い ということはその一つ
オットは試験を望んだわけではないが
去年の春から鍼灸指圧師養成の学校を希望したので
来年60歳ながら必然的に 試験を受ける という境遇にある
一年生の時 
点字を覚えなければならないということになったとき
彼は夏休みに視覚障害者の級友に
点字で手紙を書く ということを自分に課して勉強した


工夫のひと_f0085284_2363669.jpg
 


10月に誕生日のお祝いをしたが
彼と同い年の一同級生は仕事をしながらの学生生活
登校するのもままならない
従って受けられない授業も出てくる
今回の試験前 
オットは自分のために作ったA4サイズの試験用要点を
その弱視の級友のためにA3サイズに拡大して手渡した



試験はあと二日
がんばれ がんばれ
短い睡眠時間に英気を養え!
二階の寝室から洩れてくる寝息に声を掛ける
来年もう一度の試験を受けたら 春には三年生だ
出会ってから40年が経つが
自分のため が 自然とひとのためになる工夫をし
日々を暮らしている姿勢はずっと変わらない
# by skyalley | 2010-12-02 02:45 | うちのひとびと
商いは信用

ふ と思い出した
子どもの頃のある晩の両親のやりとり
私は襖一枚を隔てた部屋で妹たちと布団に入っている
お客様は ほとんどが近所の顔見知りという
小さな乾物屋を 両親は営んでいた
父はいつも一日の終わりに帳簿を付けていた


父が母に訊いている
「今日 らっきょ 売った?」
「らっきょ? 売ってな・・・い かな 売ってない どうして?」
「いや・・・」


それからまた数日して同じやりとりがあった
「らっきょ 売った?」
「らっきょ? 売ってないと思うよ 今日でしょ? 売ってないよ」
「おかしいなぁ また1つなくなってる・・・
 5つ並んでるだろ さっき見たら3つしかないんだ」
「おかしいねぇ・・・ 誰か取ったんだろうか」


父は少し気色ばんだ
「お前 もし誰かが取ったのを見ても 言うんじゃないよ」
「え・・・だって・・・」
「いいんだ」
「何で・・・」
「うちのお客さんなんだから いいんだ 言うなよ」
「・・・・・」
母は不満そうなのがわかる 
私はまた床の中からそのやりとりを聞いている


昨日習字に見えたお向かいの遠藤さんにこの話をしてみた
酒屋さんの奥さんである彼女は私の話に大きく頷いた
「そうよ うちだって絶対に言わない
 たとえ取った物でポケットが膨らんでても 
 言うな ってお父さん(ご主人)もそう言うものね
 お客さんに後ろめたいところがあっても
 それはお客さん側のこと
 うちのお客さんで来てくれる限りは信用する
 そもそも
 取られるような置き方するこっちが悪いんだって
 そう思え って
 そう教わりました」


遠藤さんご夫妻は70代
私の両親が生きていれば80代だ
一昔前までは 「商いは信用」ということが当たり前だった
今更ながらにそう思った
私も商人の娘として このことを忘れずに務めよう


商いは信用_f0085284_0564272.jpg



それにしても
変なことを憶えていたり 思い出したりするものだ
# by skyalley | 2010-11-28 00:53 | 父・母
ひとのかげひなた

ひとのかげひなた_f0085284_0111083.jpg



日本エッセイストクラブの会長の村尾清一氏と
徳談会の打合せをした折に
「ようやく『徒然草』を愉しめる年齢になりました」と
目下の私の関心事を聴いて頂いた


『徒然草』は
清少納言の『枕草子』
鴨長明の『方丈記』と共に
日本の三大随筆と言われているそうな


村尾氏は最初
「うん それはいいことを始めたね」と仰ったが
私がなぜ兼好をいいと思うかを話したら
「あんたは 兼好のいいところばかりを見ているようだが
 兼好はね 喰うに困って艶書の代筆をしたのよ
 高師直(こうのもろなお:
 室町幕府を開いた足利尊氏の
 執事として絶大な権勢を振るった)がね
 山陰のミス日本と言われた塩冶高貞の奥さんに横恋慕してね
 兼好に恋文を代筆させたの
 ところがこれが突っ返されたもんだから
 怒った師直が高貞に謀反の罪を着せて
 塩冶一族が討伐されたって
 『太平記』に書いてあるよ

 人間はね 酸いも甘いも というひとがやはり面白いね
 蔭もあれば 日向もあるということだね
 片方じゃ味気ない
 『徒然草』ね そりゃぁ いい」


ご自身も随筆家でおられる村尾清一氏
今度の日曜日
講師として旧友の安嶋彌先生をご紹介下さった氏に
久しぶりにお会いできることが嬉しくてならない


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# by skyalley | 2010-11-25 00:14 | 徳談会日記
「絆」という言葉
「絆」という言葉_f0085284_1755127.jpg


腰痛予防のための
一時間の早足散歩を終えたら『徒然草』の一段を
ということを今 自分に習慣づけているところ
今日で4日目
無作為に開いた兼好の話は第二十段

     なにがしとかやいひし世すて人の
     「この世のほだし持たらぬ身に
     ただ空の名残のみぞ惜しき」
     といひしこそ
     真にさも覚えぬべけれ


     何とか言う世捨て人が
     「この世において
     絆[ほだし]というものを持っていない
     この身にとっては
     ただ[空の名残]だけが惜しい」と言った
     ほんとうに そう感じられるものだな



古語では絆を[ほだし]と言ったようだ
改めて辞典を引いて 今日も新たな発見に一人沸いた

きずな《絆・紲》
①家族・友人などの結びつきを離れがたく繋ぎ止めているもの
②動物などをつなぎとめておく綱
     (大辞林 第二版 三省堂)

ほだし《絆し》
動詞
①自由に動けないようにつなぎとめる 束縛する
②逃げようにも逃げられない気持にする
名詞
①馬の脚などをつなぐ縄
②足かせ手かせ
③事をなす場合の妨げとなるもの
  (岩波古語辞典 1974年初版)


 
今まで「絆」という言葉に対して私は温かさ
と同時に 窮屈さも感じていた
元々の意味として「ほだし」はよい意味は含まれていないどころか
身を縛るものとしている
「親子の絆」などという言葉に対して私が感じていた違和感に近い


古語辞典で「きずな」を引くと
「きづな」を引くように という指示がある
[きづな]
①馬・牛・犬・鷹などをつなぎとめる綱
②断ちがたい煩悩 
『完訳用例古語辞典』には
②断ちがたい情愛の繋がり とある
この「つな」(綱」の音のせいで
私は「きづな」という言葉に窮屈さを感じていたのだろう
両親共が他界した今の私に
その窮屈さが有り難さに変わって思えるのも
『徒然草』を読んだおかげだ


この世捨て人は[ほだし]
心の自由を妨げ束縛するような絆というものを持っていないが
その時々にいろいろな姿を見せて
心を慰めてくれた空との別れだけが心残りだ と
兼好に話した


「絆」という言葉_f0085284_23324153.jpg



一時間の散歩という
ささやかながら自身に課したことを為し終えた後に
初冬の柔らかな陽射しを受けながら
この一段に出会い そして空を仰いでから
しみじみと本を閉じた


「絆」という言葉_f0085284_1756546.jpg

# by skyalley | 2010-11-23 18:02