触ることからはじめよう
by skyalley
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「オンカロ」(フィンランド語で「隠し場所」)
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先日テレビで
「地下深く 永遠(とわ)に 
~核廃棄物 10万年の危険~」の再放送を観た 

以下NHK BSのサイトより抜粋



各国が頭を痛める原子力発電所の廃棄物問題
北欧のフィンランドが世界に先駆け
核のゴミの最終処分場の建設に乗り出している。
「オンカロ」(フィンランド語で「隠し場所」)と呼ばれる処分場は
太古の岩盤層を深さ500mまで掘り下げた先に作られ
施設が国内で排出される核廃棄物で満パンになる約100年後に
入口を完全封鎖されるという。

核廃棄物の最終処分が難しい理由は 実はその先である
廃棄物が出す放射線が
生物にとって安全なレベルに下がるまで
欧州の基準では少なくとも10万年かかるとしている
つまりオンカロは
人類の歴史にも匹敵する膨大な歳月の間
安全性の確保が求められるのだ
革命や戦争が起きたり
気候や地殻の大変動に見舞われたりしたとしても・・・

最も危惧されているのは
今の人類が姿を消したあとの未来の知的生物が処分場に侵入し
放射線が漏れ出してしまうシナリオだという
そうならないよう
近づくと危険だという警告を伝えた方がいいのか?
しかし、どうやって?
あるいは何もせず
記憶から消し去ってしまう方がいいのか?




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「オンカロ」に直接間接に関わる人々へのインタビューが
監督からたびたびなされる
10万年後に
「ここは危険だ」と警告するにはどうしたらいいのか


たとえばこんなサインは?

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こんな絵を描いておいたら?

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こんな案も出たという

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質問を受けた側は 事が重大なだけに
だれもが真摯に応えようとはしているが
それにしても10万年後を確かに想定することが出来ない

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内心の不安や懐疑を抱えての応答が続く
どうしても途中でため息が洩れる
お手上げだというような仕草も出る
黙考の末 沈黙に託す
「good luck!」で話を締めくくる女性もあった

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地下500メートルで着々と進められている工事
地表の動物たちは
目に見えぬ動きに敏感だ

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最後に使われていたアリアの一部は印象的だった

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原子力というパンドラの箱を開けた人類が直面する難問を描く
2010年 国際環境映画祭(パリ)グランプリ受賞作品だという


私には
触れられ
数字や線が書かれ
削られ 
爆破され 
地下から地上に放り出されていく岩を見ているだけで
胸がいっぱいになる作品だった


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by skyalley | 2011-02-26 12:57 | 一枚の葉を森へ(no nukes)
『絵本 徒然草』橋本治



『古今集』のずっと後 鎌倉時代になって出来てきたのが
『新古今集』という和歌の集でな
ここに祝部成茂(はふりべのなりしげ)という人の

「冬の来て
 山もあらはに木の葉ふり
 残る松さへ峰にさびしき」という和歌が載っとる
冬の情景を歌ったもんだがよ、分かるだろ?

「冬が来て山も禿げ山になるぐらい木の葉が散って
 緑のまんま残っている松さえも 山の峰では寂しいぜ」
という、そういうこったよ

お若い諸君にゃ「だからなんだ?」だろうがな
まぁそんだけのもんだわ
そんだけのもんを「ああだこうだ」と
大の大人がより集まって論議をする訳じゃな

「大の大人がバカらしい」と思うのは勝手じゃがよ
逆のことだって考えてみろな

大の大人が
たかが冬の景色を歌っただけのもんを目の前にして
「ああだこうだ」と言っとったということはよ
そのたかが景色でしかないものを見る
見て感じる”自分の気持”ということを大切にしていた
ということだな

「大の大人がどうでもいい和歌の一字一句に目の色変えて」
と笑うのも勝手だが
それをしなければ自分の気持にウソが出るという
人間の根本に対して目の色を変えていた
ということも忘れて下さるなよ ということじゃな

「僕の言いたいことはそうじゃない!
 僕の気持が分かってない!」と言う前にだ
果たして自分は
他人に分かってもらえるようにキチンと
自分の気持を表現出来ているのかどうかも考えてみなされや
ということじゃな

大の大人が一字一句に目の色を変えるというのは
そんなことでもあるんじゃよ

自分の気持をキチンと表現出来てじゃ
しかもそれがオシャレにもなっておって
それで初めて”一人前”というのが貴族社会の常識でな

 
『絵本 徒然草』p.114 橋本治著 2005 河出書房新社



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午後 ようやく散歩の時間を作り砧公園へでかけた
小一時間歩いた後に
ケヤキが「空の路地」を織りなす下で
橋本治節を聴いた

夜の受業を楽しみに帰途についた
by skyalley | 2011-02-24 11:19
唱歌「春が来た」


春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た

花がさく 花がさく どこにさく
山にさく 里にさく 野にもさく

鳥がなく 鳥がなく どこでなく
山でなく 里でなく 野でもなく



毎週火曜日の朝 祖師谷国際交流会館で
ご主人の留学のため来日したウミ・ファイさんと日本語の勉強をしている
外国人が日本語を学ぶときの一つの難しさは助詞
て・に・を・は などなど


今日 授業の最後に「春が来た」をウミさんに教えた
いくども繰り返し歌うウミさんだったが
終止が どうしても そ〜み〜れ〜しど〜 となる
曲本来のそ〜み〜れ〜そど〜 になってくれない


ご本人は何の違和感も感じられないらしく
ほかの部分を難しく感じておられるご様子
彼女個人のことではなく 何か文化的な背景があるような気がして
午後習字の勉強に来られた福島俊さんに訊いてみた


日本の歌には は ふぁ と し を使わず
どれみそら だけで成り立っているメロディはたくさんある
という特徴があるそうだ
ふぅん なるほど


「春が来た」の作詞者は長野の生まれ
何かがやってくる時は 山の向こうから という
そんな憧れを持っておられたのだろう
長野生まれの福嶋さんも同感だと仰った


春は 山から 里(村)へ そして野(平地)へと降りてくる


だんだんに春が近づいてくる期待が込められている
そして最後の一語 野「でも」の この「で」の一字の中に
もう どこででも春が感じられるのだ 
という喜びが溢れている


ウミさんに「春が来た」の歌を使って助詞の説明をしたら
アフリカ生まれで 
いつも寒い寒いと言っている彼女の表情が明るくなったような気がした
今 妊娠8ヶ月 4月の初めには出産の予定だ
待ち遠しい春にちがいない


昨夜の娘の話を思い出した
2月生まれの子供たちの誕生会で
孫息子の颯太は「せんせぇ は〜るがき〜た〜 うたおっ」
と申し出たそうだ


みんながテレビアニメの主題歌ばかりを大はしゃぎで歌っていたので
先生は颯太のリクエストがとても嬉しかった と
日頃から小学唱歌を愛唱し 
颯太にも歌っている私は その話にご満悦だ


颯太が描く母親もも像にも
手足だけではなく
頭からもなにやらが芽吹きだした
「春よ来い!」


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by skyalley | 2011-02-23 09:58
靴のような靴下

金曜日の朝
栃木県の那須でパン屋A TABLE! を営む妹から
いつものように販売用のパンが届いた
箱の底の方に何か包みが見える
開封すると
きれいなきれいな色の靴下が出てきた

妹が手紙を添えてくれていた
曰く



この靴下の編み方は日本スキージャンプ界の草分け
猪谷六合雄さんが
既成のスキー靴下に飽きたらず
八年かかって考案 完成したものです
独自の記号と編み方なので
『暮らしの手帖』が「解読」
その号を れんちゃん(姪;私の長女)が送ってくれました

さすがに八年かけただけあって 型崩れがしない
足首と土踏まずのしまり
踵と爪先の立体感は必要から生まれた用の美 
感心しました

雪に閉じ込められた今冬
手持ちの毛糸とMさんに頂いた昔の中細・極細毛糸を組み合わせて
「毛糸や道具を新たに買わない」をテーマに編んでみました

色の組み合わせも楽しく
立体的になっていくのも楽しく
この冬の唯一の生産的行為

三足編んで手が慣れてきたので
そちらにも一足編みました
残念ながら最後の爪先部分で糸が無くなり
別糸となってしまいましたが
はいてみてください

これは靴下というより「靴」です


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手紙を読んで すぐに履いてみた
足にぴったり! 
やわらかでいて そしてしっかりした靴を履いているよう
すぐに足下がぽかぽかしてきた
いつも足が冷たくて 顔は火照るようだったのに
足下に重心が落ち 心地よいことこの上ない


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亡くなった母は編み物が得意な人だった
私はまったくできないけれど
妹 そして私の長女がその楽しみを受け継いでいる
すてきな力だ
それにしても中細・極細毛糸を使ったとは
何と手数がかかったことだろう
そのことを楽しいと思える妹
那須の高原に独り
雪に降り込められていながら
せっせと編み針を動かしている妹が
母が編み物をしていたときの姿と重なった


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by skyalley | 2011-02-18 18:23 | うちのひとびと
門前の小僧


ある日の夕食後
4歳の孫息子・颯太が私に言った
「ね かっくんのなまえ かいてあげるよ」
   「おっ いいね 書いて 書いて」
「う〜ん むずかちぃなぁ(サ行が不得手)」
   「じゃ いつか書けるようになったらでいいよ
    待ってるね」
「あ ねぇ ねぇ えいご(英語)でもいい?」
   「いいよ お願いします」
「あ やめた やっぱり かんじ(漢字)にしよっと!」


颯太は話しながら手を動かしている


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生まれる前から ずっと
私の言葉の寺子屋「こころへ教室」に近く 育ってきた
学校を終え 仕事を終えたあとに
あるいは休日にも 
習字や英語 フランス語 そして日本語を学びたい
という方たちが来て下さる教室に
ちょこちょこ顔を出しては
机の上に広がっている紙やノート
私たちのお稽古中の会話を聞いてきた


とはいえ 彼にとって書ける平仮名は まだほんの少し
教えてはいないが 
ある日突然 書くようになった
そんな彼が 漢字だ 英語だ という


またある日の夕食後
「かっくん はっぱ ちょうだい」と教室にやってきた
私は時折 葉っぱを拾ってきては
その葉脈を写し取る「木拓」で遊んでいる
ノートに挟んであった何枚かの葉っぱを彼に手渡した
しばらくすると「できたよ〜」と持ってきた
一枚の葉を木に見立てて
いつか一緒に描いたように根っこも添えている


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私の教室では 幼い子供たちが平仮名を学ぶとき
どの字にも大きな海や空があるんだよ と教えている
ふところの大きな 豊かな文字を書いてほしい
そして一画一画が 実は一つの流れの一部だということを
感じながら書いてほしい と思っている
颯太と字を勉強したことはないが
彼はもらった教材を自分で見て
○印は平仮名の一部 と そう思っているらしい


書き終えてから
「かっくん これでうみのみず ながれていかないかな」
海を包み込むような柔らかな豊かな線で
書けているかどうかを訊いているのだ


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 「うん いいね!」と頭を撫でると
えらそうに
「じゃ あげるね」と言った
それから鋏を持ってきたかと思ったら
「はい じゃ そうちゃんがあげましたっていうしるしね」
と紙の角を切ってくれた


こんな調子で
彼なりに 毎日 周囲の様々な人々から
様々なことを取り入れ 料理し
人生を愉しんでいる
彼と彼を取り巻く人々に 世界に
幸あれ と願わずにはいられない


 
by skyalley | 2011-02-15 01:52 | 孫息子・颯太言葉ノォト
今朝 窓辺で


思わず声をあげた


昨年11月頃 散歩をしていて
公園で一本の枝を拾った
茶の葉が二枚付いたまま そしてその元は芽の姿
はて この芽が古い葉を押し出すところだろうか


残りの芽はうっすら黄緑色をしている
折られた枝の中もいくらか湿気を残している
生きている
来年の春まで見守ろう そう思って持って帰ってきた


今朝 勉強にやってくる子供たちを待ちながら
天気を見ようと窓辺に寄ったら
 おっ ふくらんでいる
 薄緑の芽が ふくらんでいる!


3ヶ月以上 教室でいっしょに暮らしてきた
花瓶にいっぱい張っておいた水は
いつも飼い猫に飲まれていた
ぴちゃぴちゃぴちゃ


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昨日に引き続き また雪が降り出した


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by skyalley | 2011-02-12 10:15 |
みえるもの と みえぬもの と

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戦争前にうまれたひとと
戦争後にうまれたひととが繋がる
そんな集まり「徳談会」を日曜日に無事終えられた


孫息子の颯太を保育園に早く迎えに行って砧公園へ
放たれた颯太は 走る 走る 転ぶ 笑う 
火曜日の昼過ぎ ひとはまばら


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見えないはずの空間に「みち」を見
名付けた「空の路地」の写真を撮りつつ散歩
4月で彼も5歳


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いっしょに「空の路地」に見入ったり
ブランコに乗りながら 
路地があることを教えてくれるようになった


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木々の梢は いまぐんぐんと水を吸い上げ
芽吹きのその瞬間を 今か今かと待ち構えている
ちょうど颯太が そうであるように


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by skyalley | 2011-02-10 09:54 | 空の路地
子猫の小雪



さきほど記事を書かせてもらった一杉燃料店のご主人から
ハート柄の付いた新入り娘の写真を送ってもらいました


  小雪ちゃんは3ヶ月半を過ぎて
  この頃は女の子の準備なのか
  身体中からフェロモン出しまくりで
  悶えまくって居ます。


だそうです

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多摩川の河原で凍え死ぬところだった 
なんていうこと
早く忘れてしまえ〜 小雪さんや
by skyalley | 2011-02-09 12:29 | BUTTON日記
「あ 猫ちゃんだ」 一杉燃料店


最近は石油ストーブを使っている家庭は少ないらしい


一昨年の冬の初め
配達に来てくれていた灯油屋さんに電話をしたら
「割に合わないので店頭販売だけ 配達はしない」とのこと
二缶分40リットルを
自転車でふぅらふぅらしながら家の者と運んだこともあったが
すぐに断念
電話帳で調べて偶然電話をしたのが
一杉(ひとすぎ)燃料店


注文を受ける電話口の声に「どうぞ どうぞ」という響きがあった
やがてやってこられた一杉さん
電話に出られたのは父上だとのこと
タンクに灯油を満たして
さて料金を という段になったら
私について玄関まで出て来た飼い猫のヨシダを見て
「あ 猫ちゃん!」
「お宅も飼っていますか?」
「は〜い います います じゃ どもぉ!」
気持ちのよい声を残して去って行かれた


以来 二回の冬の間 二週間に一度は配達をお願いしている
先日 お支払いをして一杉さんを見送ろうとしたら
車に乗り込む直前 一杉さん 
くるっと振り返って 携帯電話を取りだしながら
「昨日 うちの坊主が まぁた馬鹿で
 多摩川で野球やってる時に 捨て猫をみつけたんだって
 練習が終わったら連れて帰ってやるからな と猫に言ったのに
 忘れて帰ってきやがって
 夜 風呂から出たら ああっ 大変 猫忘れてきた!! って
 そぉれから懐中電灯もって多摩川行って
 あの辺だったっけ この辺だったっけって探して
 ようやく見つけたら マフラーかなんかの上に座ってんの
 飼い主か誰かが可哀想だと思って 入れてやったんだね
 それがね ハートのマークがついてるのよ」

そして携帯電話を操作して その猫さんの写真を見せてくれた

それから
「うちの犬 大変なの 今 女房が病院に連れていってんだけど
 いつもは店のシャッター開けると
 飯だ 飯だ って吠えるのに
 あれぇって うんでもなけりゃ すんでもないの
 見たら息絶え絶えで横になってるじゃない
 昨日まで何ともなかったんだけど・・・」


私は一杉さんにお願いして
猫さんや病院に連れて行かれたというネオゾウの写真を
送ってもらうことにした
検査の結果 ネオゾウは珍しい病気にかかっていて
「今日にも手術 涙目になったり 胸なで下ろしたり・・・」
と昨日の電話の一杉さん
ご家族みなでさぞ心配をなさっていることだろう


綿雪の朝を迎えたとはいえ
やはり春の気配は否めない
暖かくなったら一杉さんとのおつきあいは
今度の冬まで一休み
灯油代は無くなるけれど 
一杉さんとの会話が無くなるのは寂しい


どうぞ痛みが最小限に抑えられますように
一日でも早くご家族のもとに帰れるように
ネオゾウのために 春よ 来い!


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一杉燃料店 屋号 寿美屋
157-0071 世田谷区千歳台6−4−20
03-3300-2762 090-3212-6447
8:30 ~ 17:00
土曜日半日 日曜祝日休み
by skyalley | 2011-02-09 11:49 | BUTTON日記
第15回徳談会 岡本克之氏の記憶から


西村英二先生をお迎えしての第15回徳談会のあらましを
参加された岡本克之氏より寄せられましたメールより
氏のご快諾を受け
原文のまま掲載させていただきます


   。。。。。。。。。。



「初めての人とお話しするとき、よく聞かれることに、お国はどちらで というのがあります。僕はあれが苦手でしてねぇ。はぁ って言うと、ご出身はどちらでいらっしゃいますか とくる」

「まぁ、周囲も同じ時代を生きてきましたから、特段の苦労をしたとも思わないです」
祖師谷の留学生会館で留学生にボランティアで日本語を教えていらっしゃる西村英二さんは、かなりの激動を生きてこられた。

「生まれはイギリスのロンドンです。生まれてすぐ、母親が病弱だったものですから、ナースをつけて、僕はナースに育てられました。
ナースとの会話は英語。母親もナースと話しをしなければいけませんから、英語で話す。自然、家の中の会話も英語でした」

大正15年(1926年)のお生まれ。

「日本へ帰って住んだのが、芦屋。当時は、芦屋村。なかなかハイカラな村で、髪の毛伸ばして半ズボンはいていても、違和感のないところでした」

「ところが、父親の仕事の関係で、今度は福岡へ。九州男児に非ずんば、といった気風のところで、頭は丸坊主。変な奴が来たということで、いじめもありました」

「小学校の5年生になると、今度は京都へ。京都弁は、前に関西で過ごしたことがありましたから、前から住んでいたような顔をしてました。
もっとも、5年6年あたりになると、皆中学校への進学に勉強が忙しくって、そんなことを気にしている場合じゃなかったということもあったでしょう」

「進学すると今度は東京です。最近はあまり言わないそうですが、標準語、東京の言葉もきちんとこなしたのですが、帝都線(井の頭線)で通っていたのが、電車が混んでおりられない、思わず出たのが おりまっせぇ。電車中に笑われました」

「今度は父親が満州へ転勤になります。大きなアルミニウムの工場を建設するということで、その責任者として赴任するのですが、すでに戦争がはじまり、昭和19年(1944年)にもなると、これは日本本土は危ないんじゃないか、もしかすると、天皇陛下も満州にお渡りになるかもしれない というような話もしていました」

「1945年8月15日で戦争が終わると、両親とは離れ離れになってしまっていました。
どうにかこうにか、高校だけは卒業したのですけれど、大学に進学しようにも金がない。ちょうど昭和19年に母親がキリスト教の信者になり、私にも信者になるようにと言われたことがきっかけで、外国人神父の知り合いがありまして、金がないなら、仕事を紹介すると言われ、アルバイトに行ったのが、極東国際軍事裁判所 」

WOW!

「私はロンドン生まれで、当時はまだ日本国籍とイギリス国籍の二重の国籍を持っておりまして、進駐軍用の物資を買えるとか、ときどき満員電車を避けて進駐軍用の車両に乗ることができたりとかいう恩恵もありました」

「極東軍事裁判所で驚いたのは、勤めた翌日から、フランシスという名前で呼ばれたことです」
フランシスは、西村さんの英語でのお名前。

「仕事は、裁判の証拠書類、被告の尋問調書などの整理です。判事が、あそこにこんなことが書いてなかったか?というと、僕が書類を読んでいって、ああここにありますよ といって翻訳をするというような仕事でした。検事もきさくな人たちで、キーナン主席検事なども、お前はこの裁判をどう思うとか、僕に聞いてくる 。自分たちが過去に何をやったかには触れず、あとから日本がやったことだけを証拠に採用する、こんなの勝者が敗者をさばく茶番だ と批判しても、それを採用するしないということは別としても、ちゃんと聞いてくれました」

***

「しばらく働くと、お金もたまり、どうやらこれで、大学3年間はやれそうだという目処が立って、東大の法学部に進学します。ところが、入学したとき年間2000円だった授業料が6000円になるという。こっちは2000円で計算しているのに、それでは、成り立たない。学費値上げ反対闘争が始まり、僕は闘争副委員長になりま す。共産党の人たちは、授業ボイコットを唱え、僕は授業ボイコットは権利放棄だからするべきではない。授業を受けるのは学生の権利であるから、それを放棄することはナンセンスだと主張しました。
当時、僕は外交官になりたいと思っていたのですけれど、いざ試験を受けようとしたら、敗戦で外交官はいっぱい海外から戻ってきているので、今年の採用はないと言われます。それには文句言うわけにもいかないので、今の三井物産の前身の一つである第一物産という会社に入ることにしました。
ところが、会社に入るにあたり、卒業証明書を持ってこいという。事情を説明するのですが、卒業証明書を持ってこなければ、会社に入れることはできないという。しょうがないので、大学に頭を下げて三年分の授業料を払い、卒業証明書をもらうことにしました」

「第一物産に入ると、大阪支店を大きくするからそちらへ行けと言われ、大阪支店に入ります。二年ほどたつと、当時就業生制度といって、一年海外で勉強させてくれるかわりに、一年海外で勤務するという留学制度の試験を受けろという。試験を受けたのかどうか記憶にありませんが、当時僕は既に結婚しておりまして、あ とから既婚者はダメだという。それはひどいというと、ならば、君を転勤させることにしようという。
転勤と就業生とどちらがいいのか比較してみようということで、当時、転勤というのは課長以上しかなかったものを、僕は転勤することになりましてニューヨーク支店に赴任することになりました」

「ニューヨークに行くことになり、家内を同伴したいと会社に言ったのですが、既に君の給料だけでも社長より高いのに、家族同伴などとんでもない、悪いようにはしないから、ということで、単身で赴任しました。
ところが、待てど暮らせど、会社からは何の音沙汰もない。指輪をしていると奥さんはどうしたと言われるのが面倒なので、指輪も外してしまうようなところで、ようやく3年たって、家内を呼ぶことができました。」

「都合6年ニューヨーク支店におりましてから本社勤務で帰国しました。もうその頃は三井物産になっていました。ニューヨークに居ると、日本のお客さんの観光案内も仕事です。ナイヤガラなど何十回も行って飽きてしまいました。ご案内したお客さんの中の一人の社長さんが、僕を気にいってくれて、ウチの会社に来てく れという。ニューヨークで6年お世話になって帰国したとたんに会社を変わるのでは、さすがに申し訳ない。お断りをしようと思ったのですが、会社のほうが、どうせ将来はまた一緒になるのだから、悪いようにはしないからと言ってそちらの会社に行けという。
それで、台糖ファイザーという会社に行くことになりました。製糖会社というのは、クリーニング業なんですね。原糖を白くして卸すだけ。生産もなければ販売もありません。
そこが、製薬会社と合弁で設立した会社です。その頃、日本の製薬会社の仕事のやり方は、富山の薬売りと全く一緒。製品を預けておいて、使った分だけあとでお代をいただく。
ファイザーに、こんなやり方ではダメだ。お前を海外に行かせるから、商売のやり方を勉強してこい と言われ、フィリピン、そしてオーストラリアと、商売を勉強しに行きました。確かにやり方が全然違う。
当時、日本にはマーケティングという言葉はありません。僕は、日本で初めてマーケティングを商売に取り入れることになりました」

「製薬業界のお客さんは、お医者さんです。お医者さんは自分で何でも知っていて、僕らは教えていただく立場。それが商売のやり方にも反映します。教わるだけでは、新しい商売にはつながらない。そこで、需要創造ということを始めます。こういうときはどうする、ああいうときはどうする とお医者さんの話を良く聞い て、それではこういうものがあったらどうだろう と逆に提案してみる。そうすると、そういうものがあればということが出てきて、ならば、こういうものがあります と商売になる。それが需要創造です」

「そうこうするうち、台糖ファイザーはどんどん大きくなり、増資につぐ増資で、資金力を高める。台糖ファイザーは、台糖とファイザーが50%−50%で出資した会社です。最初のうちは、台糖も増資に応じていたのですが、だんだんとついていけなくなる。
ファイザーは、ならば自分だけで増資していくと言いだし、一方、厚生省は、国民の健康を守る製薬会社は外資50%が上限で、それ以上はまかりならんという。
そこで、しょうがないから、株を三井物産に預け、三井の出資で対応しようということになった。ところが、今度はファイザーが食品、医薬品の会社ならば良いが、日本の商社などに出資させたら、何をされるかわからないから嫌だという。
暗礁に乗り上げたところで、最後に折れたのが厚生省。以後ファイザーが増資をしていき、最後は100%外資となっています。
僕もファイザー本社に行って事情を説明するなど、交渉に関与していましたが、その過程で、外資というものはいかがなものかと思い、イギリスのファイザーを訪ねたことがあります。
既にイギリスのファイザーはほぼ100%外資でしたが、彼らによれば、我々は資本は入れるけれども、経営は経営でしっかりやれば良いではないかという。
それならば良いかということで、僕らもファイザー側の資本が50%を超えて行くことを容認することにしました」

「やがて、社長交代の話しとなり、僕は台糖側から推されて社長候補になりましたが、ファイザー側から出たほかの候補が社長になり、イギリスではああ聞いたが、やはり資本はしっかり確保しておかねばダメだ と思いました」

「やがて定年となり、ファイザーを離れ、日本テクニコンという血液検査の会社に入りました。いくつもの複合項目の検査を一度にやることのできる機械の会社で、全国の病院にその機械を入れようというかなりのシェアを持っていました。ところが、株主が会社を売るという。
よそに買われるのもいやだということで、役職者が金を出し合って、会社を買収しようとしたのですけれど、最後に残った相手がバイエル。お金がありますから、あちらのほうの提示金額が高く、僕らは損をすることはありませんでしたが、持っていた株をバイエルに売り渡し、会社はバイエルのものとなりました。
しばらくして、私が65歳になると、バイエルが実は労働組合との協定で、全世界のバイエルでは、誰であれ、65歳を超えて社員、役員であることまかりならぬという。
労働組合との約束ではしょうがないということで、そちらを退職し、今度はメディカルジャーナルの会社の顧問ということになりました。
そちらは、医薬品会社の広告宣伝を扱うところで、西村さんもいらっしゃいますからとか言って、ファイザーから商売もらっていたんでしょう」

その頃、ご自宅近くの東京教育大=筑波大の農場跡に留学生会館ができるという。まわりの人たちは、最初のうち外国人が街に来るのは困るといって反対。
たまたま西村さんのお話しを聞いておられた、小林善彦先生は、その頃、留学生会館を作ろうという方面にも関わっておられ、地元の要望はなるべく受け入れるようにとご指導なさったという。

「当時は、畑の真ん中に留学生会館が出来た状態で、周りにはスーパーのような生活インフラが何もない。留学生の人たちに自由に材料を使って料理していいよと、わが家をオープンキッチンにして、お役に立てることにしました」

そういったところで交流が始まり、やがて、西村さんは、留学生に日本語を教えることを始められる。

「日本語を教えるといっても、単に文法を教えるだけではならない。相手を好きになるというか、日本語の背景にある文化を語らなければ、言葉を教えることはできない。
日本は特別だなどと傲慢なことを言っていてはいけない。話しをしてみれば、世界中の人々が同じことを考え、同じことを言っていることがわかります」

今日、留学生会館(国際交流会館)の運営は、建物周辺の方々のご協力、ボランティアもあり、以前よりは順調であろう。
しかし、問題は以前山積である。
西村さんは、単に日本語を教えるだけでなく、会館の運営、留学生の生活、その他いろいろな問題についても積極的に取り組まれておられる。

あるとき、留学生会館の隣に土地があり、そこにクロネコヤマトが配送センターを作るという。せっかく留学生が静かに勉強する環境に、配送センターなど作られてはたまらない。反対をするが、らちが明かない。
見かねた西村さんは、直接クロネコヤマトの社長を訪ね、事情を説明。理解を求めた。
「クロネコヤマトのあの社長は、立派な方だと思いました。話しを聞くなり、計画を取りやめ、今、その場所はマンションになっています」

留学生の生活にもいろいろな問題が起きる。
日本の大学教授は会議会議で追いかけられ忙しい。コミュニケーションがうまくできない留学生のお世話はどうしても、ないがしろになりがちである。
自分と異なる意見の学生には、学位を与えないということもたびたび起こる。
留学生同士も、それぞれ自分のことに没頭し、横の交流もままならならず、相談する相手もいない。
一人の留学生が自殺。西村さんは、大学に赴き、指導教授に事情をお聴きになった。最後に教授は、非を認め、留学生の指導がなおざりになっていたことを謝罪した。

多くの人々が、海外から日本へ、より多くの留学生をという。
留学生会館を作り、環境を整えたといっても、留学生制度本来の目的は、そこから先のこと。
東京にある一部の留学生だけが恩恵を被るだけのもので良いのか、という課題もある。
制度、設備だけを整えても、留学生を受け入れる人の充実がなければ、留学生受け入れ本来の目的は達成されない。
意義ある留学システムの持続、発展には、西村さんのような方々のご尽力がまだまだ必要なのである。

人生至るところに青山あり
数奇な運命を生きてこられ、今また海外からの留学生のために尽力される、西村さんはそのようにおっしゃる。

小林善彦先生らとのお話しの中で、厳しいご指摘も。
「留学生たる者には、留学生たる心構えも必要」


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質問に立たれる岡本氏
手前左から西村先生 赤いジャンパーの鹿野先生 後ろ小林先生

ありがとうございました
by skyalley | 2011-02-08 08:54 | 徳談会日記