触ることからはじめよう
by skyalley
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ひとを見る目三種 「視る  観る  察る」

ブログを読んで下さった方のお一人から尋ねられた
「なぜ お孫さんのことを 実名で記すのか
  彼が成長したときに どう思われるのかを 
  考えたことがあるのか」と
なぜその問いが発せられたのか
ふだんなら拠って立つところをすぐに訊き返すところだが
一呼吸してからお尋ねした  「おしまい?」
「そう おしまい」 その方はきっぱりと応えた


その後 差し障りのない会話を続けた
続けながら 私は別のところで考えていた
彼の問いにどう応えるか
ある言葉を思い出した

   
   子曰、視其所以、観其所由、察其所安、
   人焉痩哉、人焉痩哉
           『論語』 巻第一 為政第二   


        子曰く 
        そのなす所を視、 
        その由る所を観、
        その安んずる所を察すれば
        人いずくんぞかくさんや 
        人いずくんぞかくさんや


論語(道統)と 算盤(経済)を両立させた澁澤栄一は
この一節を次のように解している

孔子の人物観察法は、視・観・察の三つをもって
人を鑑別しなければならないというところに特徴がある
まず第一に
その人の外面に現れた行為の善悪正邪を視る
第二に
その人のその行為の動機は何であるかをとくと観きわめ
第三に
さらに一歩を進めて
その人の行為の落ち着くところはどこか
その人は何に満足して生きているかを察知すれば
必ずその人の真の性質が明らかになるもので
いかにその人が隠しても隠しきれるものでない

外面に現れた行為が正しく見えても
その行為の動機が正しくなければ
その人は決して正しい人物とはいえない
また外面に現れた行為も正しく
その動機も精神もまた正しいからと言って
もしその安んじるところが飽食・暖衣・気楽に暮らすというのでは
その人はある誘惑によっては意外な悪をなすこともあろう

その安んじるところが正しい人でなければ
本当に正しい人であるとは保証できない
この三段階の観察法を実行すれば
その人がいかに隠そうと
善人は善人、悪人は悪人と常に明白に判定できる
    『孔子』(三笠書房 1992  p。44)



孔子のこの三段階の観察法に照らし合わせて
私が孫息子のことを実名で書いていることを
恥じることではないと思っている

彼という一個人を通して 
社会人の一員となるべく預かっている一人の人間の
人間的・社会的な成長を
家族や彼を知っている方々と
どのように促し 導き また喜び合うかを
書くことによって客観的に捉え 
家庭でのよりよい関わりを築いていきたい
これが彼のことを書いている動機である


そのことは まず彼にとって喜ばしいことであること
また彼と関わるひとにとっても喜ばしいことであること
さらに彼の成長についての記事を通して
社会にとっても何かしら喜ばしいことになりうる
つまり「三方善し」が
ブログを書くことを含め
私が何かをするときに精査し 安んじるところである


私は相対している人におもむろに このことを話した
そのことに対しての言葉は返ってこなかったが
一人になってから反省した
していることが恥じることではないとしても
大事にしている「三方善し」の姿勢が
ブログにおける私の文章の未熟さのために
理解されなかったということは十分に有り得る と


なぜ実名で孫息子のことを書くのか
その問いには絶句したが
おかげさまで
私がブログを書き続けているのは
それが身内のことであれ 何であれ
「三方善し」が叶ったときを記録するため
ということを再確認するきっかけを作ってくれた
ありがたい問いとなった

                 
ひとを見る目三種 「視る  観る  察る」_f0085284_0301150.jpg

by skyalley | 2010-04-02 00:31 | こころへ教室日記
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